岸田劉生《麗子肖像(麗子五歳之像)》について

岸田劉生の図録を1日ずーっと眺めていました。
今年入社したスタッフから色々と質問を受けたので
多くの方が知っている事ではありますが、
麗子に関する事をちょっと書いてみたいと思います。

岸田劉生《麗子肖像(麗子五歳之像)》1918年 東京国立近代美術館蔵

岸田劉生について解説します。

岸田劉生は1891年(明治24年)6月23日に銀座で生まれます。ここで略歴も書いてもつまらないので、詳しい略歴は、ARTwikiをクリックしてご覧ください。
今回は、スタッフの質問にあった麗子の焦点を当てて書かせて頂きたいと思います。

まず1913年に劉生は結婚し、麗子が生まれたのは1914年(大正3年)4月10日です。
この絵に関して少しだけウンチクを話します。東京国立近代美術館蔵にある
麗子肖像(麗子五歳之像)が描かれたのは1918年10月8日です。
作品名は”麗子五歳之像”となっていますが、実はこの時本当は4歳なんです。何故こんな事になるかと言うと、当時は数え歳という考え方で、
現在の様に満何歳という考え方ではなかったという事です。
大した話じゃないですが、この事に気がついた時、何も重要では無いのに、何故か誇らしく研究家の様な気になりました。(ちょっとドヤ顔)

業界では知らない人は居ませんが、岸田劉生が麗子を主に描いた時期は
1917年(大正6年)から1922年(大正11年)です。
その後も少し描いてますが、ほとんどはこの6年間です。
鵠沼に住んだため、この期間を鵠沼時代と呼んだり、
麗子像を最も多く描いた為、麗子時代とも呼ばれている時代です。

1917年に引っ越しますが、初めて麗子を描いたのは1918年(大正7年 )の夏です。
この年から、油絵も水彩もデッサンも麗子の友達のお松も描き始めます。

また、1923年に鵠沼から引っ越します。
その理由ですが、1923年9月1日に関東大震災が起こります。
自宅が半壊した為に、鵠沼から引っ越しをする事になります。
東京に戻りたいと言っていたのに、何故か京都に引っ越します。
この流れも、もう少し深堀してみたいと思ってます。
どうも、名古屋に行って、その後に京都に行ったみたいです。

その後については、またの機会に書かせて頂きます。

岸田劉生の買取、鑑定の相談されたい方はお気軽に 花田美術
03-3289-5555

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この記事を書いた人

花田美術の花田淳(じゅん)と申します。
銀座の泰明小学校の近くの6丁目で画廊を経営しています。
会長の花田孔男はコロナ禍以前になりますが銀座ロータリーの副会長をさせて頂いておりました。娘の花田ひなたは銀実会を通して、銀座で多くの先輩達にお世話になっております。
家族一同銀座に愛情を持っております。銀座の街に恥じないように真面目に一生懸命お客様に喜んで頂ける様に精進して参りたいと思っております。
今後とも、よろしくお願いします。

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