たけひさ ゆめじ
略歴
1884年9月16日 - 1934年9月1日(享年:50歳)
1884年 岡山県の酒屋に生まれる。
1899年 早稲田実業学校に入学。
1905年 在学中に「中学世界」のコマ絵「筒井筒」が一等入選。
1910年 絵葉書「月刊夢二カード」第一集発行。
1912年 雑誌「少女」に「宵待草」発表。
1918年 京都府立図書館で個展を開く。菊富士ホテルにて「黒船屋」を制作する。
1931年 アメリカへ出航。展覧会など行う。その後欧州へ渡る。
1933年 滞欧中に病気が悪化して帰国。
1934年 信州富士見高原療養所へ入院。当地にて死去。享年50歳。
竹久 夢二(たけひさ ゆめじ)岡山県生まれ。数多くの美人画を残しており、その抒情的な作品は「夢二式美人」と呼ばれ、大正浪漫を代表する人気作家となる。また、多くのデザインも手がけており、日本の近代グラフィック・デザインの草分けのひとりともいえる。
防空演習のものものしい様子を流していたラジオが突然伝えた夢二の死は、恩地孝四郎に、哀しみと衝撃を同時に与えた。
若い日、1冊の小さな夢二画像集に心惹かれ、その想いのたけを手紙に綴って未知の画家に宛てた恩地、夢二芸術を深く理解し、もっとも敬愛したこの夢二学校卒業生には、女性遍歴を重ね、乱れていく夢二の生活がつねに気にかかっていた。刹那的な夢二の生き方に、芸術家として成長する恩地の心は痛んだ。『愚人日記』と自ら名付けた日記に恩地は次のように書き残している。
「あの人の放浪的な心持ちと弱くして病的な情愛とは、あの人を私とまったく違った生活境へと運んでしまった。私は夢二さんに対して、その生活について、反意を覚えるようになった。」【恩地孝四郎 青春の軌跡 22】
恩地の潔癖な感情は、ときに夢二のデカダンスを烈しく非難した。「怒るなら怒るがいい」と。だが夢二はその心ある批判を甘んじて受け、「侘びしく自分の生活についての嗟嘆」を描いて恩地に送った。ふたりの交流はその後も続くが、一時代の密度は保ちえなかった。
病をえて療養のために信州に向かう夢二を新宿駅に見送ったのが、恩地が見たその人の最後の姿だった。「『夢二』の字を見るだけで既に私の胸は重圧を覚えるのである。すまない気が一杯になる。たとひ後には想念を異にしたとはいへ、僕の少年時代に潤を与へ、私をして画を志すのを知られざる誘因となっていたその人に対する道ではなかったことからへの悔いのためである」【夢二の芸術・その人】
だが夢二の死に際し、恩地に似た感情を持った旧友は少なくなかった。夢二を悼む文章に目を通しているとしばしばそうした記述に出会う。彼らにとって黙して逝ったこの智を語ることは、寂しく、心重たいことだったのである。
小さい頃から絵を描くことが得意で友人に絵を描くことを頼まれたりしており、お礼になにかを貰うといったようなビジネスもやっていた。しかし、学校での図工の成績はいつも丙か丁(今でいう2か3)ばかりであった。当時は教科書や見本通りに描かないと先生から評価してもらえない時代であったことがよくわかる。
早稲田実業学校在学当時よ新聞雑誌に投書を続けていた夢二は、1909年(明治42年)12月、はじめての著作【夢二画集 春の巻】を刊行した。夢二26歳。以後 いずれの画壇にも属さず、ひとり『えをかくこと』に賭けた孤独な画家の25年にわたる苦悩への旅立ちであった。
もとより本格的な画家としての活躍を思い描いていた夢二は、洋画家岡田三郎助を訪ね、美術学校への進学の是非を問うた。夢二が持参した作品を見た岡田は、資性の適った方式で自分を育む旨を述べたという。18歳で故郷を離れ、パンと水だけで過ごす日々の中、コマ絵を描きながら人生を模索する夢二の記念すべき画集が【春の巻】であった。ひとりの芸術家のなかに存在する詩人と画家との邂逅を果たした画集の成功はあ、その後の夢二芸術がもつ抒情性を方向づけている。
夢二がもっとも将来を渇望し、セザンヌと共通するものがあるとまで評価した恩地孝四郎との友情も、画集にはじまる。【春の巻】を手にした恩地はその喜びと感想を率直に、しかも情愛こめて書き、夢二に送った。夢二のもとにはそのころ恩地のほか夭折(ようせつ)する田中恭吉や藤森静雄ら、近代版画史上エポックを画した【月映(つくはえ)】の画家をはじめ若い芸術家たちが集い、ともに影響し合いながら人生と芸術とを創造していた。
1912年(大正3年)、夢二デザインの版画、カード、千代紙、半襟などを揃えた呉服橋の港屋開店お際しても、恩地らは協力を惜しまなかった。
青春期の鋭敏な感性が成しえた【月映】の発刊(1914年)は、恩地らに夢二との決別を促していた。夢二の情緒的世界に魅了されながらも彼らのみずみずしく理知的な感性から生まれるその作品は、そのころデカダン的色彩を深めてゆく夢二の作風と、その方向を異にしはじめていたのである。
やがて彼らは夢二学校を巣立っていった。
一方夢二は、最初の妻たまきとの関係を清算することもあって、1916年(大正5年)、京都へ移り住んだ。京都での生活は1918年11月までの2年間であった。
夢二の京都時代、京都画壇は大きく揺れた。文展への不信から国画創作協会が結成されたのは、1918年(大正7年)1月のことである。この会の中枢にいた野長瀬晩花(のながせばんか)は、夢二の日記にしばしば登場し、ともによく遊び、酒を飲み交わす仲であった。画壇になんお背景も持たない夢二と、官展に対するいら立ちを表明する晩花とが、親しく近づいたことはきわめて自然の成り行きであったといえる。夢二のデカダン的資質は、すでに早くから芽生えていたが、当時の国画創作協会とその周辺の一部の画家にみられる異様な作風からあふれ出る頽廃(たいはい)味を帯びた空気に、夢二が深く共鳴したであろうことは容易に推測される。屋にかかっていた夢二の舞子の絵がどのようなものであったかは分からないが、少なくとも【陰翳礼讃(いんえいらいさん)】が示す谷崎の耽美的世界と、京都座代の夢二の作品に宿る雰囲気とは無関係でありえまい。
人間夢二を理解しようと努める恩地は、このころの夢二の傾向をよくとられている。1918年4月に岡崎公園の府立図書館で行われた竹久夢二抒情画展目録に手紙の形式で寄せた恩地尾一文には心打たれるものがある。
「日本は少し小さすぎる。いまは殊に狭苦しい気がする。あなたにい接しているとあなたのいいものがよく分かる。それがそのまま現れずにあなたの身に苦しみを増し乍らも、世に出したあなたが変形していることについて、私にあなたの作者としての天分を活かし切るには、この世はあなたに適当でない。この世に生きるにはあなたが弱すぎたとも云えるかも知れないが、それは芸術と直接のものでは本来ない。そうした人にとっては芸術と世間とが切り離されなければならないが、君は、人間の生活それ自体に執着せずいはいられない人情を喜び愛した。あなたの生存上の欲求が現在的な感情の豊満にあった。」
夢二の心の奥底にいつも変わらずにあった童児のごとき純粋さを誰よりも知っていた恩地のこの手紙は、生み出された夢二の作風や破壊的に見える人生観が、決して夢二の本質ではない。いや、そうあってくれるなという悲痛な叫びともなっている。
しかし当時の大衆が夢二に求めたものは、恩地とは相反する夢二の世界であった。夢二はもてはやされ、大正という時代の終わりとともに次第に忘れられてゆくさだめにあった。
【夢二画集 春の巻】には、「この集を、別れたる眼の人に送る」と献辞が添えられている。眼の大きな未亡人岸たまきと夢二との出会いは、1906年(明治39年)、夢二が早稲田鶴巻町にあるたまきの絵はがきの店を訪ねたことによる。たちまちのうちに恋におちたふたりは翌年正式に結婚。夢二24歳、たまきはふたつ年上の26歳であった。しかし幸福な時期は長くは続かず、勝気でヒステリックなたまきと浮気性で気の弱い夢二とのいさかいは続き、【春の巻】で刊行された1909年(明治42年)破局を迎えた。だがその後も同棲と別居を繰り返しながら、ふたりの関係は夢二が京都へ移る1916年まで続いている。ふたりの間には虹之助、不二彦、草一という男の子があった。
たまきとの別離を決定的にしたのは港谷に出入りしていた女子美術学校に通う笠井彦乃との出会いだった。日本橋で紙問屋を営む彦乃の父の強い反対は、夢二と彦乃をいっそう深く結びつける結果となった。京都で次男不二彦と3人で過ごした歳月は、夢二の孤独な生涯にわずかな光明をともし、彦乃の25歳の死によって終焉を迎えるこの恋は、生涯夢二の心をとらえて離さなかった。夢二没後、不二彦氏に届けられた遺品となったプラチナの指輪には、『ゆめ35しの25』と刻まれその後の夢二の生きながらの死を物語っている。しのとは言うまでもなく、夢二が彦乃に与えた名であった。
旧友久本DONが連れてきたモデルお葉によって、再び夢二は制作意欲を燃やす。お葉との生活は本郷菊富士ホテル、渋谷宇田川長、さらに夢二自身の設計による少年壮までつづく。和製ノラと呼ばれた山田順子の性急な求愛に翻弄される夢二のもとをお葉が去ったのは、1925年(大正14年)のことである。
女たちは、夢二のそばにあって彼の作品を創造するという共同作業を担っていた。夢二式美人の原型ともいうべき初期の作風はたまきによって生まれ、彦乃に受け継がれ、お葉によって完成された。夢二の代表作【黒船屋】は実際はお葉をモデルに描いているが、たまきや彦乃との恋愛の果てに画家がもちえた女性観の投影えあったといえるだろう。
漂泊する夢二の魂は常に女性を愛することで充足をえようとした。夢二のエゴイズムは、おそらく彦乃を除けば、生身の女性を好みの人形として創り変えようとしたに違いない。
夢二にとって恋愛とは男と女をともに高めていくものではなく、芸術家のエゴそのものであった。それゆえに夢二は自らの内にある孤独を癒すことのできぬまま寂しく恋の幻影を見つけていかなければならなかったのである。
夢二を語るとき、たまき、彦乃、お葉をはじめとする女たちの存在を無視しては語れない。夢二芸術の展開は、画家の女性遍歴そのものであった。だが、芸術家としての夢二を認め、支え、ともに語り、ときに厳しく批判し、彼の作品を見守り続けた夢二周辺の先輩や友人なくして、夢二芸術の価値を見出すことは不可能であろう。投書家時代、彼の画家としての門戸を開いてくれた荒畑寒村、島村抱月。夢二とともに青春を駆け抜けた恩地孝四郎ら『月映』グループ。京都時代の堀内清、岡田道一あるいは野長瀬晩花、秦テルヲら。長崎の永見徳太郎をはじめとする夢二のパトロン的存在の人々。尊敬の念を抱く藤島武二、岡田三郎助。終生変わらず夢二を用語した有馬生馬、森口多里・・・。数えきれない数々の友情は、近しく遠く、夢二を想った。
永年の夢であった洋行を果たした晩年、戦争の足音という大きな嵐の序章の中で、弱い画家の精神と肉体は蝕まれた。
夢二は病床にあって次のように書いている。 「男に会いたい人なし。 女はぜつたいうるさし。 たゝひとめ会いたいなぞもなきこそよけれ。 金もらひて絵かかぬおいめも御免なさんし。 浴衣単衣さへ心におもたし」
信州富士見の高原診療所医師正木不如丘の好意のなかで夢二はその最期を迎える。しかし、わが身ひとつをたよりに、幻影のなかに愛と生と死を見つめつづけた夢二は、肉親友人を遠ざけ、寂寥と悲哀をかみしめて逝くというもっともふさわしい幕切れを自ら演出した。
1934年9月1日没。享年51歳。
夢二の死から2年後、恩地孝四郎は有島生馬とともに、友情の証として、【竹久夢二遺作集】を編んでその墓前に捧げている。
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