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まえだ せいそん

前田青邨

略歴

1885年1月27日 - 1977年10月27日(享年:92歳)

1885年 岐阜県に生まれる。本名は廉造。

1898年 上京し、叔父の営む東京本郷根津の「東濃館」に居住。

1901年 尾崎紅葉のすすめで梶田半古の画塾に入門。

1902年 日本絵画協会共進会で「金子家忠」が3等褒状。半古から「青邨」の号をもらう。

1908年 国画玉成会展で「囚はれたる重衡」が3等賞首席。

1910年 紅児会に「市」を出品。

1911年 第5回文展に「法華経」「竹取」を出品し褒状を受ける。

1914年 再興日本美術院展に「湯治場」「竹取物語」を出品し、同人に推挙される。

1918年 日本美術院評議員に推挙される。

1922年 小林古径と渡欧し、ローマ、フィレンツェ、パリに滞在。

1950年 東京芸術大学の教授となる。

1955年 文化勲章受章。

1977年 死去。享年92歳。

前田 青邨(まえだ せいそん)岐阜県中津川市出身の日本画家。歴史画から肖像画、花鳥画と幅広く描く。昭和30年文化勲章を受章。

師につく

 青邨の生まれ故郷は、島崎藤村の名作『夜明け前』の舞台となった木曾馬籠(まごめ)に程近い中津川。1985年(明治18年)、乾燥商を営む前田常吉の次男として生をうけた彼の本名は兼造といった。小学校に入るころより図画の得意であった兼造少年は、漠然と将来は画家となる希望を抱くようになっていたが、はっきり彼がその決心を固めたのは、初めての都会生活で損なった健康を回復し、再上京した1901年(明治34年)のことである。まず親戚のつてで尾崎紅葉を知り、彼の紹介で梶田半古(はんこ)の塾に入門し、玄関番として住み込むことになる。塾長は、生涯すぐれた先輩として、また良きライバルとして多くの影響を受けることとなる小林古径であった。

 師の半古は、初め四条派を学びながら土佐派の菊池容斎の影響を受けて『前賢故実』をも学び、歴史画や風俗画を得意とした。そして代表作《春宵怨(しゅんしょうえん)》にみられるように、写実を加味した浪漫的作風に特色を示し、岡倉天心(てんしん)の標榜する日本画近代化運動に賛同する。日本青年絵画協会の創立メンバーでもあった。世間一般には紅葉の『金色夜叉』などが人気小説の挿絵画家として高い評判を得ていたが、なかなか革新的な考えをもった実力派だったのである。

 一方、塾生の指導に関しては、もっぱら絵巻物を中心とする模本の模写と写生の二方向が重視され、歴史画制作の基礎となる有職故実(ゆうそくこじつ)の研究にも力が入れられていた。必然的に青邨の画業は、こうして当時流行していた歴史画を描くことからスタートする。

歴史画

 青邨の画才が世に認められるのはきわめて早く、入門の翌年には第12回日本美術院日本絵画協会共進会に出品した《金子家忠》が三等褒状となり、「青邨」という画号を同時に得ている。これによって研究熱心な青邨は、いっそう画業に励む一方、翌年には国学院大学の聴講生となり、古典や歴史の知識をも着々と吸収していくのだった。ところが、その後も入選を重ね順調な歩みをみせていった青邨は、1907年(明治40年)、第一回文部省美術展覧会(文展)に出品した《大久米の命(みこと)》が落選するという、思わぬ苦杯をなめることになる。それは七十余年におよぶ長い絵画活動において、ただ1度の落選の経験であった。先輩古径は無論、後輩すら入選していただけに、相当のショックを受けたものと想像される。しかし、彼の前向きで建設的な考え方、また楽天的で都会人にはない線の太い粘り強い性格は、いつまでも過去の失敗に執着することなく、それを次の飛躍のバネとしていった。青邨画のもつ、明朗闊達で少しもいじけたところのない男性的な魅力は、このあたりにも起因するであろう。同年、友人の紹介で、新鋭作家安田靫彦(ゆきひこ)、今村紫紅などの率いる歴史画研究団体「紅児会(こうじかい)」に入会した青邨は、若き精鋭たちとしのぎを削る研鑽に努め、新傾向を示す彼らから多くの刺激を受けることとなる。そして翌年には、明治日本画界における新派グループが結集した国画玉成会第一回展で《囚はれたる重衡(しげひら)》がみごと三等賞第一席となり名誉挽回、若手ホープとしての面目を示した。

 さらに1911年(明治44年)第五回文展で装状を得た《竹取》は、天心の説く東洋的浪漫主義の思想的影響下に、日本画の近代化をめざしていた日本美術院の実力作家下村観山の注目するところとなった。観山は、自分同様抜群の技巧を示すこの俊英に少なからぬ共感を覚えたのであろう。以後その成長に温かい眼差しと援助の手を差し伸べていく。そして同年、観山の媒酌で佐橋すゑという好伴侶を得た青邨は、さらにその翌年、日本画近代化の思想的リーダーとして尊敬する天心との、衝撃的な邂逅(かいこう)を遂げている。第17回紅児会展会場で、天心自身から直接「濁りをお取りなさい」という鋭い指摘を受けた青邨は、その美術的直観に満ちたことばを生涯の指針としていくのであった。

 また一方で、このころより若手新鋭作家をバックアップしていた横浜の原三溪(さんけい)富太郎の援助を受けることにもなり、物心両面における安定を得た青邨は、大正期のあらたな展開へと向かう。

大正期の青邨

 1913年(大正2年)、紅児会は解散し、翌年、天心の死去にともない日本美術院が再興される。青邨は、その第一回展に《竹取物語》、《湯治場》の2点を出品し、先輩古径とともに同人に推挙された。続く1915年には紫紅の勧めに従い、単身朝鮮旅行を敢行し、翌年には京都へ取材へ向かう。さらに1918年には初の個展を開催するなど、精力的な制作活動が展開されていく。そしてこの時期の青邨には、紅児会や院展で若手作家のあいだに強力な指導力を発揮した紫紅の影響が顕著に認められる。まずは題材は、写生にもとづく風景が圧倒的に増え、作風は大胆奇抜な構図に点描風の筆致と黒の滲みの味わいを生かした。南画調が主流を占めるようになる。前述した1914年(大正3年)《湯治場》、1915年《朝鮮之巻》、1916年《京名所八題》はいずれもその端的な例で、こうした傾向は、紫紅の《近江八景》などに代表される、西洋近代絵画に触発された南画再考の動きに刺激を受けたものと考えられる。青邨の明るくおおらかな芸術の開花に、進取の気象に富む紫紅の放胆で自由闊達な作画姿勢との共鳴があったことは見逃せない。

 1919年(大正8年)、相次ぐ紫紅や判古の死に遭遇した青邨は2度目の海外取材として中国旅行を試みるが、今回は体調を崩してスケッチもはかどらず、旅の成果《燕山(えんざん)の巻》は彼にとって不本意なものとなった。その輝かしい作画活動の陰で、青邨の内部に、伝統的な日本画に対する疑問、自己の進むべき方向に対する迷いといったものが生じていたのもこのころであった。この根本問題の解決に悩み、一時は油絵への転向させ考えた青邨に、やがて迷いを一掃する好機が巡ってくる。

▣セザンヌへの傾倒
 「近代の西洋で最も好きなのはセザンヌである」と語った青邨は、彼の芸術の特質を見事にとらえ「セザンヌは対象の根底を深く洞察してその情緒におぼれなかったのである」(『作画三昧』)と述べている。それはまさに青邨の作画姿勢そのものといってもよいだろう。ところで1922年(大正11年)渡欧した際、彼は知人のためにこの敬愛する巨匠の《水浴》という裸婦のスケッチを求めている。それから約30年後、71歳に達した青邨もまた《治安群像》という、女性の裸体像に挑んだ。その的確な形態把握と斬新な構図の背後に、「放逸な女の単純な裸体を簡浄に的確に表現して余すところがない」と評した青邨の、セザンヌ画に対する密かな闘志が燃えていたころは、ほぼまちがいがいあるまい。青邨画のもつ近代的性格を考えるうえで、このセザンヌへの傾倒は1つのカギともいえそうだ。

西洋との邂逅と東洋への回帰

 1922年(大正11年)10月、青邨は古径とともに日本美術院留学生として欧州へ向け旅立つ。マルセイユからローマに赴きヨーロッパ各地とエジプトを回って、目的地ロンドンへ着いたのは、翌1923年であった。この旅によって、西洋絵画との新鮮な出会いを経験した青邨は、そこに東洋絵画と共通する美の存在を発見し、自己の進むべき方向に自信を得て迷いを断ち切っていく。イタリアのアッシジで見たジオットの壁画や、初期ルネサンス作品に感銘を受けた青邨は、「アッシジで見たジョットの壁画にすっかりまいってしまいました。(中略)目がさめるような思いで日本画も同じことだということを感じたのです。では、自分は日本画でいこう」(『作画三昧』)と語って日本画家としての自覚を表明している。

 一方、ロンドン滞在中は、古径と2人大英博物館に通いつめ、この度の主たる目的であった中国古代名画として名高い伝顧愷之(こがいし)筆《女史箴図》を分担模写した。わずかな光を頼りに、傷みの激しい不鮮明な線描をたどる作業は困難を極め、2人は当時を回想し、生涯でもっとも苦しい模写であったと語っている。しかしこのつらい経験をとおして青邨は、東洋画の線の美質を再確認し、日本画の伝統に対する自信を深め、帰国後、充実した豊饒(ほうじょう)な制作が開始されていくのだった。

 まず1925年(大正14年)の《イタリー所見》に滞欧中の瑞々しい対象をまとめ、さらに滞欧経験を結晶させてみせたのだが、1927年(昭和2年)の《羅馬(ローマ)使節》である。イタリア中世絵画に啓示を得て、日本画の伝統的な装飾性、平面性を大胆に導入し、明るく華やかな画面に青邨芸術の本格的開花を予兆させるとともに、馬上姿の伊東マンショには、西洋との邂逅によって東洋の美の伝統に覚醒した若き青邨の自信に満ちた姿を投影させている。

昭和の全面開花

 

 これに続く昭和初期の青邨の活動は、確固たる自信のもとに多彩な展開を示し、明るく爽やかで健康的な、また機知と技巧をフル回転させた青邨芸術の全面開花を示すことになる。まず1929年(昭和4年)には、青邨の前期武者絵の総決算ともいえる《洞窟の頼朝》に若々しい覇気を漲らせ、1930年の《罌粟(けし)》あたりから琳派(りんぱ)の伝統に注目して、《唐獅子》、《蘭陵王》など華麗な装飾性を示す大画面構成に挑戦する一方、1927年作の《西遊記》を筆頭に、色彩を抑えた得意の線描表現にもいっそうの磨きをかけていった。また画題も《鵜飼》、《白河楽翁会》、《観画》《大同石仏》など歴史画を主軸に風景、風俗、花鳥、人物と広がりを見せている。こうして戦前期における1つのピークを迎えた青邨の軌跡は、古径らの新古典主義的な動きに掉さすものであり、彼らと並んで院展の三羽鳥などと言われ、画壇における地位もゆるぎないものとなっていた。

しかし確実に時代は戦争への歩みを進めていた。1935年(昭和10年)の松田改組を皮切りに、美術界にも統制の動きがみられ、自粛の勧めや戦意昂揚的な主題の選択が迫られるようになっていく。この時期の傑作の1つ、1940年(昭和15年)の《阿修羅》の鎌倉武士を組み合わせた構想には、明らかに時局と元寇の重ね合わせる意図が読み取れる。また各種献納作品展への出品も続いた。しかし彼はそうしたなかでも堅実な創作活動を続け、1945年(昭和20年)、いよいよ激しくなる戦禍を逃れて疎開した郷里中津川で終戦を迎えたのだった。

▣画禅入三昧(内助の功)
 「子供のように天真爛漫な父は、母のふところの中で思うままに絵だけを描き続けてかたのだから、母はどんなにか大変だったろう」(秋山日出子「折々の父・青邨」『日本近代絵画全集第24巻』月報)。青邨が純粋に画道一筋、作画三昧の生涯を送ることが出来た背景に、糟糠(そうこう)の妻、のちに荻江流家元を継いだすゑの内助の功は見逃せない。1919年(大正8年)、中国旅行で体調を崩した青邨が、自己の進むべき方向に迷いスランプに陥っていた際、円覚寺の老師釈宗演への参禅を勧めたのも、このすゑであった。青邨は、夏目漱石はじめ先輩紫紅も参禅したというこの近代の名僧から「画禅入三昧」という墨跡を与えられ、それを生涯の指針としたという。そして青邨の遺文集『作画三昧』もこの一偈(いちげ)にちなんで命名されたていると、義息秋山光和氏はその解説において述べている。

 ただ当時は戦後の窮乏時代であったため、板木(はんぎ)を手に入れるのも大変であった。ハガキ大の板きれさえ大事に彫った。のこぎり目の残っている板に彫った作品もある。この時期に大作が少ないのはそのためだろう。こういう困難の中で【道祖土頌(きやどしょう)】【運命頌】などを制作、1951年(昭和26年)にはサロン・ド・メイの招待出品した。

戦後の充実

 自国の伝統に対する自信喪失といった戦後の価値観の混乱のなかで、日本画界も御多分に洩れず、極端な自己否定と西洋絵画、ことに抽象絵画への急接近がみられ、油絵と対抗した厚塗りの日本画が一世を風靡した。しかし青邨は、若き日に感銘をもって刻まれた天心の「濁りをお取りなさい」という言葉を胸に秘め、東洋絵画の伝統に根差す芸術をさらに深く充実させるため邁進していく。そこにはもはや若き日の迷いはなかった。

 戦後の出発は、線描に重きをおいた人物像追求の先駆をなす1947年(昭和22年)の《郷里の先覚》を皮切りとして開始され、この系譜上に《Y氏像》、《出を待つ》、《ラ・プランセス》、《耳庵(じあん)像》などが制作され、その1つの到達点を示す自画像《白頭》へと至り、さらに《転生》、《土牛君の像》へと続く。また戦前からの琳派研究の一環として、水墨のたらし込みの妙味を生かした《風神雷神》や東大寺二月堂の修二会(しゅにえ)に取材した意欲的絵巻《お水取》、老いていっそう瑞々しい感性の輝きをみせた《中国三部作》など、戦前にも増して主題、テクニック、スタイルに新生面が開拓されていった。

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