あおき しげる
略歴
1882年7月13日 - 1911年3月25日(享年:28歳)
1882年 明治15年7月13日、福岡県久留米市に生まれる。
1896年 中学時代、森三美について洋画を習う。
1899年 中学を中退し、洋画家を志して上京。小山正太郎の不同舎に入門。
1900年 東京美術学校西洋画科選科に入学。
1903年 在学中、第8回白馬会展に、神話を題材にとった『黄泉比良坂』(東京芸術大学蔵)他を出品。第1回白馬賞を受賞し注目される。
1904年 小学校時代からの親友、坂本繁二郎らと共に房州布良に滞在。『海の幸』(ブリジストン美術館蔵)などを制作。第9回白馬展に出品し、一躍名声があがる。
1907年 『わだつみいろこの宮』(ブリジストン美術館蔵)が東京府勧業博覧会で3等賞を受賞するも、文展に落選するなど画壇からは受け入れられず、同年帰郷後、まもなく放浪生活に入る。
1911年 明治44年3月25年、胸を病み、福岡市で死去。享年28歳。
青木 繁(あおき しげる)久留米市出身の洋画家である。『海の幸』の作者として知られる繁は、満28歳の若さで没した繁の生涯は半ば伝説化している。日本の古代神話などをモチーフにした浪漫的色彩の濃い作風は西洋美術の物まねではない独自のものとして高く評価されている。
青木繁は1882(明治15)年、現在の福岡県久留米市に生まれている。1882年といえば、いまだ江戸時代の雰囲気を色ごく漂わせていた時代で、明治維新の際の佐幕派と勤皇派の争いの名残が町のいたるところで見られたという。没落した武士階級の中には精神的異常をきたす者もおり、そうした人を久留米の方言で「じゅうげもん」(ひねくれ者の意味)と称した。そしてその明治維新の際、勤皇の士として「応変隊」で活動した青木の父は、維新後代言人の仕事をするが、ご多分にもれず「武士の商法」としてうまくいかなかったのである。そうしたなかで青木は、軍人でもなく、政治家でもなく、芸術をもって身を立てることを考えていた。中学時代同人誌に寄稿したこともあり、早くから文学的才能を開花していたのである。
この青木に絵画の目を開かせたのは、その当時唯一久留米にいた洋画家森三美(みよし)であった。久留米中学明善校に通いながら洋画の基礎を森から学んだのである。すでにのちの洋画家坂本繁二郎は森のが画塾に通っており、ここで青木と坂本は久留米高等小学校以来、再び机を並べることになった。
森三美の指導のもと、絵画の世界に目を向けた青木が父親に画家になる子との希望を述べると父親は「美術とは何だ、武術の間違ひぢやないか」といって反対したという。しかし青木の画家になりたいという希望はますますつのるばかりで、ようやく母方の叔父の説得により父親も承諾し、1899(明治32)年2月久留米中学明善校を退学し、同年5月に上京するのである。上京後ただちに小山正太郎の不同舎に入門し、本格的に洋画家への道を歩むようになる。そして翌1900年4月東京美術学校西洋画科選科に入学、黒田清輝らの指導を受けることになった。美術学校時代の青木は、黒田が教室に入っていくとそっと後ろから出ていくというように黒田の指導に反発したと伝えられているが、青木の作品の中に黒田の《昔語り》の下絵の1点を模写したものも残っており、黒田の作品には共感も覚えていたものと思われる。
青木の画壇デビューは、1903(明治36)年の白馬会第8回展に神話画稿などを十数点を出品し、その年から設けられた白馬会賞を最初に受賞したことによる。黒田はこの受賞に関して日記の中で「・・・一、准会員ヲ廃スルコト 一、白馬賞ヲ青木ニ与フルコト 此の二件可決セリ」と記している。青木の周囲にいた人たちを除けば、ほとんどの人は、この展覧会で初めて青木の作品を目のあたりにしたのである。こうして画壇へのデビューを果たした青木は、翌1904(明治37)年7月に東京美術学校を卒業することになる。そしてこの7月中旬から1か月余りを房州(千葉県)布良(ぬら)に過ごすのである。同行したのは坂本繁二郎、森田恒友、そして青木の恋人であった福田たねの3人であった。このときの青木は、22歳という若さ、気の合う絵かきの仲間たち、そしてのちに一子幸彦を設けることになる恋人、さらに夏の太陽と海に囲まれ、まさに絶頂の一時期であったと思われ、《海の幸》、《海景(布良の海)》などをはじめとする多くの海を題材にした作品が描かれた。ひと夏を布良で過ごし、遅くとも9月の初めには東京に戻ったものと思われる。そして同年の白馬会第9回展に《海の幸》を出品するのである。《海の幸》は裸体画ということで特別に飾られたが、それを見た多くの人が青木の才能に感嘆の声を上げたのである。その中でも特に詩人蒲原有明は「海のさち」と題する詩をオマージュとして捧げている。この秋、私生活のうえでは本郷駒込神明町に下宿をかわり、郷里久留米から出てきた姉ツルヨ、弟義雄と一緒に住むようになった。自分1人の生活でさえ決して満足できるものではなかったが、実際の経済状態を考え、長兄としての責任からこのような行動に出たのかと思われる。こののち青木は経済的貧困に悩むことになるのである。友人のあいだで、青木が発狂したと伝えられるのもこのころである。
青木とのあいだに一子幸彦をもうけた福田たねは、1885(明治18)年に栃木県芳賀郡水橋村に生まれている。青木より3歳年下である。1898(明治31)年に日光にいた五百城(いおき)文哉の画塾に入門し洋画の指導を受け、1903(明治36)年、ちょうど青木が白馬会でデビューした年に上京し、小山正太郎の不同舎に入っている。すでに青木は美術学校の学生であったが、おそらく不同舎に青木が出かけたときにでも知り合ったのであろう。そして前述したように1904(明治37)年夏、青木らとともに布良に遊ぶのである。その後、青木の生活上の破綻もあり、翌1905年5月からの半年余りを青木とともに房洲から相州、さらに房州をへて常陸(ひたち)の各地を転々と放浪するのである。すなわち同年5月には千葉県鋸南町の「和泉屋旅館」に、6月には神奈川県三浦半島野比の円通寺に、さらに7月から9月にかけては再び千葉県館山市の円光寺に滞在し、その後8月に茨城県真壁郡伊讃村宇川島(現・下館山川島)の「玉之井旅館」に滞在し、8月29日幸彦が誕生することになる。おそらくこの間《大穴(おおな)牟知命》の制作に従事したものと考えられ、同年の白馬会第10回展に同作品を出品している。そして11月末、郷里の父病気の知らせを受けて久留米に戻り、翌1906(明治39)年初秋に、再び上京するまで久留米で過ごすのであった。その間、凱旋記念五二共進会に旧作の《女の顔》をおくるが、白馬会の出品監査ではねられてしまうのである。そしてこの12月、東京千駄木の下宿を後にしたあと、元日を加波山で過ごして再び水橋のたねの実家に戻っている。
1907(明治40)年という年は、秋に第1回の文部省美術展覧会(文展)の開催も決まり、春から夏にかけての東京府主宰勧業博覧会もその前哨戦として、多くの画家たちの期待を受けた展覧会であった。福田家に入った青木は、きたるべき東京府主宰勧業博覧会に向けて制作に励むことになった。そして3月《わだつみのいろこの宮》を同展に出品するのである。本作品は青木にとって自信作であったが、7月の褒章授与式においては3等賞の末席という結果に終わった。8月、父危篤の知らせを受けて久留米に戻り、以後ふたたび上京することはなかった。
1907(明治40)年8月21日父廉吾は死去した。父の死により青木家の長男として、すべてが青木の両肩にかかってくるようになった。もともと生活力のない、気ままな画家の生活を送ってきた青木にとって、これ以降まさに理想と現実とのはざまに立たされてることになったのである。しだいに焦燥を深めていき、家族との衝突も絶え間なくなり、結局1908(明治41)年の10月には家を出て放浪の生活に入っていくのであった。この間、1907年の第1回文展には、知人に頼んで旧作の《運命》、《女の顔》の2点を出品するが、これらもあえなく落選してしまった。翌1908年3月から現在の福岡県大川市にある清力酒造の依頼により、同家の洋館2階の壁画を飾る作品《漁夫晩帰》を描き始めているし、このほかにも《月下滞船図》、《秋》などの情感豊かな作品も残している。さらに第2回文展を目指して《秋声(しゅうせい)》の制作にも取り掛かっている。しかし前述したように家族との衝突の結果、北部九州の各地を放浪することになるのである。
これから亡くなるまでを追ってみよう。まず1909(明治42)年の1月には天草、その後3月ころまで熊本県各地を放浪している。4月久留米に戻り坂本繁二郎の留守宅や「青々館」、「花屋」などの旅館に滞在、そして7月に旧師森三美を頼って佐賀に行き、しばらくして久留米に戻っている。このとき偶然にも坂本繁二郎と久留米の街角で出会い、酒を酌み交わすのである。秋ふたたび佐賀に向かい、手記や歌集を残し、さらに1910年は、前年からの佐賀の生活が続き、元旦は三根貞一宅で過ごしている。4月には佐賀市内で画会を開いたとも伝えられている。7月から8月の中旬にかけて佐賀市白山町旅館「あけぼの」に滞在、その間小城の平島信のもとを訪ねたりしている。8月末唐津に遊ぶが、このときすでに病魔に侵されていたのであろう。10月には喀血して福岡医科大学で診察を受けたのち、松浦病院に入院するのであった。そして翌1911(明治44)年3月25日、28歳の短い生涯を病院のベッドの上で終えた。
まさに「仮象の創造」にその生命のすべてを燃え尽した一生だったといえる。
2019年04月16日16時頃
青木繁記念大賞2014年07月04日17時頃
青木繁作品など960点、東京へ 久留米の石橋美術館
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