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うめはら りゅうざぶろう

梅原龍三郎

略歴

1888年3月9日 - 1986年1月16日(享年:98歳)

1888年 京都市に生まれる。

1903年 伊藤快彦や浅井忠の洋画研究所で学ぶ。同門に安井曽太郎。

1908年 田中喜作と渡仏。ルノワールに傾倒する。

1913年 帰国。ルノワールに影響を受けた画風が注目を集める。

1914年 二科会の創立に参画。

1922年 小杉放菴らと春陽会を結成。

1926年 国画創作協会に迎えられ、川島理一郎と洋画部を新設。

1935年 帝国美術院会員に就任。

1952年 文化勲章受章。

1986年 死去。享年98歳。

梅原 龍三郎(うめはら りゅうざぶろう)京都府京都市下京区生まれの洋画家。左利きである。フランスに渡りルノワールに傾倒す師事した。画風は華やかな色と豪快なタッチが特徴。日本画と洋画の境界を越えた日本の洋画を完成させた。

ルノワールとの出会い

 梅原龍三郎といえば、だれしも彼とフランス印象派の今日王オーギュスト・ルノワール(1841~1919年)との出会いをまず思い浮かべるでしょう。ルノワールの絵を見た感激とこの老巨匠に直接師事したことは、彼のその後の画業にきわめて重要な影響を及ぼしている。すなわち、彼の前期の画業の展開は、終生変わることなく敬愛の念をもちつづけたルノワールの強い影響と、その影響からの離脱、言い換えればいかに彼自らの画風を築くかという葛藤のうえにあったといえる。ここでは、まずはルノワールとの出会いから触れることにしよう。

 梅原龍三郎が初めてフランスの地を踏んだのは1908年(明治41年)7月、それから1913年(大正2年)の5月までパリを中心とした滞欧生活を送った。20歳から25歳にかけてのもっとも多感な青春時代である。

 彼はパリに着いた翌朝、さっそくリュクサンブール美術館を訪れて初めて実物のルノワールの絵を見た。当時の若い心の躍動がそのまま伝わってくるような彼の印象深い回想記『ルノワルの追憶』(1944年 養徳社)のなかで彼は「そら、此の画こそ私が求めて居た、夢見て居た、そして自分で成したい画である。かゝる画を見る事が出来てこそかく遠く海を越えてこゝに来た価値があつた」と心に叫んだ、記している。

 それから彼は毎朝の世にリュクサンブール美術館に通うばかりか、パリの画廊やコレクションを巡って見られる限りのルノワールの作品を見たあげく、翌1909年の2月、紹介状1つなく臆する心と闘いながら勇を鼓して南仏カーニュに当時68歳の老大家を訪ねた。取り次ぎの人に「日本からきた」と強調したのが効いたのかどうか、幸いにして本人と面会することができた。梅原がリューマチをわずらう「二本の松葉杖(べきゆ)に引懸つたぼろ服」、だが、その上に「荘厳なる首」をのせていて「就中(なかんずく)美しく強気眼を持つ」と描写しているルノワールもこの日本の若者っを気に入り、以来親密な師弟関係が結ばれることになる。しばらくのちのこと、梅原が持参した絵を黙って見入ってから、ルノワールは「君は色彩を持つ、デッサンは勉強で補ふことの出来るものだが色彩はタンペラマンによるものだ、それのあるのが甚だいゝ」と褒めたという。この言葉がどれほど強い励ましと自信を彼に与えたことだろう。

 すぐれた絵に感動できること自体1つの天分もしくは才能である。海を渡ったばかりの日本の若者がすぐさまルノワールの絵画世界に没入しえたことは、やはり彼に生来備わっていた天分と彼の育った環境のなかで培われてきた感性を思わないわけにはいかない。

京都に生まれて

 梅原は、1888年(明治21年)に京都の下京(しもぎょう)区に生まれた。家業は宇治屋を屋号とする悉皆(しつかい)屋であった。兄や姉は多くいたが、兄1人と姉1人を残して早世し、彼は事実上次男末子となって大切に育てられた。

 悉皆屋というのは『広辞苑』には「江戸時代、大阪で衣服・布帛の染色・染返しなどを請け負い、これを京都に送って調製させることを業とした者」と出ている。梅原は「呉服物の問屋から集まる白生地に図案、染色、刺繍などをそれぞれの色先に分配して出来上がったもの所謂得意先に届ける迄の仕事です」と書いており、梅原家は芦刈山町一帯を下請け先にしていたということから、この町内の支配的立場にあった大店(おおだな)であったようだ。彼は子供のころから図案や模様を描きに店に来る絵師たちや豪華な友禅染の衣裳を見て育ったのであるから、後年の色彩画家としての素地は生家の環境の中で形作られたと言える。

 梅原は1903年(明治36年)の春、中学を3年で中退して洋画家伊藤快彦の家塾鍾美(しょうび)会に入った。画家を志すとしても家庭の環境から言えば日本画に進んでもなんの不思議はないのだが、洋画家を志望したのは、ヨーロッパに対するあこがれや古い伝統をもつ日本画にない新鮮な魅力を洋画に感じたのかもしれない。

 ところでちょうどこの1903年は関西の洋画壇が興隆する転機となった年である。浅井忠といえば、明治初期に来日したイタリア人画家フォンタネージに学び、自然の堅実なとらえ方のなかにも細やかな詩的韻律のあるすぐれた風景画を描いた画家、黒田清輝とならぶ明治洋画を代表する画家である。その浅井忠が東京美術学校教授からフランスに留学、帰国後ただちに新設の京都高等工芸学校の教授に迎えられ京都に来たのが1902年秋、翌1903年6月に彼は自宅を開放して聖護院洋画研究所を開いた。すでに京都には伊藤快彦の鍾美(しょうび)会など何人かの洋画家の家塾があったが、これらも聖護院洋画研究所に合併されることになった。すなわち梅原は絵を学び始めてまもなく浅井忠というすぐれた指導者に学ぶという幸運に恵まれたのである。

 聖護院洋画研究所は、翌年にはフランスで歴史画家ジャン=ポール・ローランスに学んだ鹿子木孟郎(かのこぎたけしろう)を指導陣に迎え、その後さらに拡充されて関西美術院となったが、この時代の梅原の油絵や水彩を見ると、浅井忠の感化がはっきり認められる一方、もうすでに梅原自身の凡庸ならざる力量も明らかに感じられる。

フランス留学

 梅原がフランス留学の途についたのは1908年(明治41年)の5月30日、神戸からマルセイユまでの50日近い船旅であった。このとき同行したのが、やはり関西美術院で学んでいた田中喜作(のちに美術史家)で、彼は新着の海外の書物や雑誌によってヨーロッパの美術事情によく通じていた。梅原はこの船旅のあいだに田中喜作がもっていた美術史の本から初めてルノワールの名を知った、とのちに語っている。パリに着いた梅原が旅装を解く間ももどかしく翌朝リュクサンブール美術館を訪ねたのは、この船旅中にかきたてられた実物実見の熱望を一刻も早く果たしたかったからに違いない。

▣梅原と『白樺』
 雑誌『白樺』の創刊は1910年(明治43年)4月のことである。学習院出の文学者を中心とする『白樺』が美術雑誌と見間違うほどに後期印象的など近代美術の紹介に力を入れ、それあが当時の青年画家たちに大きな影響をおよぼしたことはよく知られている。梅原とパリで交友のあった有島生馬は、帰国後『白樺』創刊に際して同人となった。その有島宛ての梅原の手紙が1911年2月号の『白樺』に載ったのを初めとして梅原はパリ通信を何度か寄稿しており、彼はごく自然に『白樺』同人のようになってしまったところがある。梅原の滞欧作やその後の仕事を常に高く評価した1人に『白樺』同人でのち高名な美術史家となった児島喜久雄がおり、また白樺派の長與善郎、武者小路実篤、志賀直哉らとは晩年まで篤い親交があった。

 梅原の滞欧中の最も重要な事件はもちろん最初にのべたようにルノワールとの出会いである。そして、ルノワールから学んだ多くのこと、1911年(明治44年)夏にスペインに行きエル・グレコに感動を覚えたこと、あるいは1912年(大正元年)秋にイタリア旅行を試み、ことにナポリの風光が気に入り、美術館ではポンペイの壁画やティツィアーノの作品を自由模写したことなどは、どれも彼の審美眼と制作を豊かにする貴重な体験であったことは言うまでもない。

 ただもう1つ、この留学中のことでつけ加えておかねばならぬことがある。これは高村 光太郎が語っていることだが、梅原がパリでまだアトリエをもてずにいたころ、高村のアトリエで彼と一緒に梅原は2点の油絵を描いた。高村はその大胆で流暢な筆致と色彩のよさに舌を巻き、この青年、なかなかものになるなと強く思ったという。実際、パリに着いてから数か月のうちの、まだルノワールに会う以前に描かれた絵が数点残っているが、それらは高村ならずとも驚きの念を抑えることのできない画格をすでに見せているのである。

みずからの画風

 1924年(大正13年)というと梅原が36歳、パリ留学から帰っておよそ10年後のことになるが、その年の二科展を評して「仏蘭西(フランス)新画の出店芸術」といい、「もう少し無意識のうちに、自然と伝統を異にし、より複雑な教養のある種族としての性情がにじみ出るのがほんたうの吾等の芸術でなければならないと思ひます。植民地のハイカラさと寂しさを思はせられます」と述べている。

 しかしながら、パリ留学後の10年間、その間に1920年(大正9年)から1年足らずの2回目の滞欧を含むが、それは梅原がみずからの画風を築くための苦闘の時期であった。実際にこの間は制作は滞りがちとなり、完成作もほかの時期に比べて少ない。いかにルノワールの芸術に心酔しようとも、その画風を迫っただけではルノワールの一エピゴーネンにすぎない。独立した芸術家になるためには、彼自身の独自なものの見方、それに即した手法による絵を描かなけらばならない。一方、ヨーロッパで学んだ画法は、生活も文化もまた風土も日本とは異なった環境かr生まれたもので、これによって日本の自然を描き表そうとすれば、そこに違和感が生じてくるのは当然である。すなわち梅原の留学後の10年間は、ルノワールからの離脱とみずからの画風模索に費やされた期間といえる。

 そして、この10年間の終わりころにようやく彼は制作を順調に進めることが出来るようになり、独自の様式を展開し始めた。こうした段階にいたってからこそ、先の日本の洋画界に反省を求める言葉を口に出すことができたのである。

画壇での活動

 1913年(大正2年)6月にフランス留学から帰国した梅原は、ひと夏を京都に過ごして9月に上京、以後短期間鎌倉に住んだり太平洋戦争の空襲の激しくなったころから戦後まもなくまで伊豆に疎開したことはあったが、東京に生活の基盤をおいた。

 結婚したのは1914年、ちょうどこの年文展から離れた石井柏亭(はくてい)、有島生馬、山下新太郎らが在野の洋画団体として二科会を創設したが、これに梅原が加わり会員となった。1918年二科会会員を辞し、1922年(大正11年)春陽会結成に招かれて会員となった。春陽会は日本美術院の小杉未醒ら洋画部同人が脱退して結成したもので、このとき梅原は草土社を主宰していた岸田劉生を客員として参加させるのに尽力した。1925年(大正14年)に岸田がほかの会員と意見が合わずに脱退した際、梅原も責任を取って退会し、その後まもなく国画創作協会に迎えられ、川島理一郎と洋画部を新設した(1928年<昭和3年>国画会と改称)。以後梅原が長く運営にあたり作品発表の場としたのは、この国画会である。

▣富士を描く
 梅原が富士を描き始めたのは、1942年(昭和17年)からであるが、本格的に取り組むようになったのは戦後の1945年の秋、伊豆の大仁ホテルの富士の見える部屋に陣取ってからである。富士をモティーフにした制作は1965年(昭和40年)まで続いた。並行して浅間山の制作も始まり、富士と浅間の連作は戦後の梅原の一時期を画したといってよい。梅原は「富士は何時見ても新鮮で美しく、直ぐ描きたくなる。しかしなかなか思うように描けないから、いく度でも繰り返して描きたくなるわけだと思う。それと、二、三か月、日をおいて見るとまた全く新鮮に見れることが非常に愉快である。」と述べている。これを読むと、季節によりまた時間によって多様な様相を見せる富士山に絶えず新鮮な感興を覚えながらも、この対象が彼にとっても必ずしも与(くみ)しやすいものではなかったことが分かる。いずれにしても、富士、ついて浅間に取り組むことによって彼の絵の華麗な日本的装飾性はいちだんと進んだ。

成熟期と晩年

      

 梅原の芸術の成熟期は1934年(昭和9年)から1940年代前半期とみてよく、この時期は「桜島と北京時代」とよばれることがある。もちろん薔薇などをモティーフとした静物も、彼の代表的な裸婦像も多く描かれているが、1934年に初めて鹿児島に旅行して、煙を噴き上げる雄大な桜島に打たれ、この火山を豪快な筆致で描いた作品や、また1939年に第二回満州国美術展の審査員として大陸に渡った岐路に立ち寄った北京の景観に感動して以来1943年(昭和18年)まで毎年のように訪れて描いた北京風景がいずれもすぐれた作品になっているからである。これらの作品や戦後のさらに豪華さ絢蘭さを加えた富士山と浅間山の連作、また1956年以降しばしばヨーロッパに滞在して描いた自由闊達な晩年の作品については別項や作品解説で触れることになるだろう。

       
    

 さしも旺盛な制作量を誇った梅原龍三郎も80歳の半ばを過ぎたあたりから絵にゆるみが見えてくるのは、やむをえないことだろう。ことに1977年(昭和52年)に長年連れ添った夫人に先立たれてからは作画量も減った。梅原が亡くなったのは1986年(昭和62年)1月、98歳であった。新聞紙上に発表された「葬式無用/弔問供物固辞する事/生者は死者の為に煩わさるべからず」という遺言状に、ある感慨をもった人は少なくなかったはずである。
 

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