つちだ ばくせん
略歴
1887年2月9日 - 1936年6月10日(享年:50歳)
1887年 新潟県佐渡島に生まれる。
1904年 竹内栖鳳に師事。「麦僊」の号を受ける。
1908年 第2回文展で「罰」が三等賞受賞。
1909年 京都市立絵画専門学校別科に入学。
1910年 梅原龍三郎とパリで学ぶ。黒猫会の結成に参加。
1911年 第5回文展で「髪」が褒状を受ける。黒猫会を解散し仮面会を結成。
1912年 第6回文展に「島の女」を出品、 文部省買い上げ。
1916年 「三人の舞妓」制作。
1918年 村上華岳、榊原紫峰、小野竹喬、らと国画創作協会を創設。第1回国展に「湯女」を出品。
1924年 第4回国展に「舞妓林泉図」「蔬菜」などを出品。
1925年 梅原龍三郎を迎えて国展に洋画部を設ける。
1927年 「大原女」完成。フランス政府よりレジオン・ド・ヌール・シュバリエ勲章受章。
1930年 帝展審査員となる。
1934年 帝国美術員会員に推され、最後の作品「燕子花」を発表。
1936年 死去。享年50歳。
土田 麦僊(つちだ ばくせん)新潟県生まれの日本画家である。竹内栖鳳に師事した。近代感覚で清新な様式と大和絵の伝統様式を統合した新境地を求めた。
佐渡郡新穂村にある農家の三男として、土田麦僊は生まれた。麦僊の父は農家のかたわら地方の政客として少しはなを知られていたが、暮らしはけっして裕福なものではなかった。しかし、田舎にありがちな閉鎖的な物の考え方をするわけではなく、社会の動向に目を向けた、常に動的な生活をしていたようである。
麦僊の画才は幼いときから発揮され、小学校在学時代にはみずから、『北陸』という画号を使用した。また高等小学校時代には川端玉章(ぎょくしょう)と橋本雅邦(がほう)を尊敬し、両者の画号から一字をもらって「玉邦」と号したほどだった。
高等小学校卒業後、佐渡の金沢村にある寺、正覚坊に預けられた麦僊はそこで僧侶となり中学校に進学し、かたわら絵の勉強をするつもりでいたようである。しかし、京都の智積院に入れられることになって上京した際、画家になる夢を捨てきれずにいた麦僊は、知人の世話により同寺を出奔した。一時六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)に身を寄せたが、再び知人を介して鈴木松年(しょうねん)に入門し「松岳(しょうがく)」と号した。麦僊このとき16歳であった。
松年塾に入門してみると、いままさに画壇は新旧の交替の時期であった。時代の趨勢をいち早く感じとった麦僊は、旧派に属する同塾を離れ、1904年(明治37年)暮れに新たに竹内栖鳳(せいほう)の竹杖(つくじょう)会に入塾し、『麦僊』と号するのである。
竹杖会での麦僊は生活のすべてを絵画に注ぎこみ、食事のお金にも事欠き、一時は病気になるほどであった。絵に対する情熱は激しく、その勉強振りには竹杖会の空気が一変したとまでいわれた。当時の竹杖会には優秀な画家たちが集まってきており、先輩には西村五雲(ごうん)、西山翠嶂(すいしょう)、橋本関雪(かんせつ)、上村松園(うえむらしょうえん)らがおり、同輩には石崎光瑶(こうよう)や小野竹喬(ちつきょう)らがいた。
麦僊が竹杖会に入門して半年もたたない、1905年(明治38年)の第10回新古美術品展において《清暑(せいしょ)》が四等賞三席を受賞した。セピア色をはじめとして栖鳳の影響を濃い作品であり、わずかの期間に栖鳳の教えを習得した才能と努力には驚かされるものがある。そして、栖鳳がヨーロッパから持ち帰った画集や話を聞くことによって得た西洋絵画への知識が、麦僊の創作欲を駆り立てることになったのである。
栖鳳のもとで勉強を重ねた麦僊は、故郷の佐渡に取材した3部作《春の歌》(焼失)《罰》《徴税日》を発表して京都画壇の新進画家として注目を集めた。これらの作品には幼いころの追憶がこめられているとともに、旧来の固定化された日本画のテーマを打ち破る近代風俗画として社会派的な一画をもっていた。
1909年(明治42年)京都市立絵画専門学校が開設されると、麦僊は小野竹喬とともに別科に入学した。このとき本科には村上華岳(かがく)、入江波光(はこう)、榊原紫峰(しほう)らが入学している。同校では美学美術史を担当した中井宗太郎(そうたろう)の影響を受け、近代絵画を認識すると同時に、東西の古典を系統づけることを学び、以後の画業の基礎を形づくることになった。
このころ東京では、後記印象派などヨーロッパの絵画の新傾向が盛んに紹介されていた。そして、京都では美術史家の田中喜作や中井を中心に熱心な研究会がひらかれていた。麦僊は「黒猫会(シャ・ノアール)」や「仮面会(ル・マスク)」に参加することによって、西洋近代芸術の思潮を身に受けとめた。長い伝統文化の息づく京都のなかで、絵画的真実を求め新しい日本画の創造を目指しはじめたのである。
1912年(大正元年)と翌年の文展には西洋絵画に範を得た《島の女》と《海女(あま)》を出品した。《島の女》はフォルムの簡略化、単純化された色彩などゴーガンに影響を受けており、八丈島と三重県の波切(はぎり)に取材した作品であった。《島の女》は三等賞を受賞したが、《海女》については審査員たちの評価は低く、評判がよくなかった。また、新しいことを試みた麦僊自身が、日本画の素材を用いた表現方法では西洋絵画と適合させるのはむずかしいという問題に直面したのである。
この問題を解決するために、麦僊は日本や中国の古典に目を向けはじめた。1914年(大正3年)から17年にかけて文展に出品した作品は、1作ごとに研究する対象を変え、自己の内部で昇華し表現していった麦僊の勉強の凄さを感じさせる。《散華(さんげ)》では奈良の《倶舎曼茶羅(くしゃまんだら)》を模写するとともに古い彫刻を学び、《大原女(おはらめ)》では智積院にある桃山期の障壁(しょうへき)画、《三人の舞妓(まいこ)》では江戸初期の風俗画、《春禽趁晴(しゅんきんちんせい)図》では中国宋時代の院体画などを研究したことが成果となってあらわれている。これらの作品は麦僊の個性があふれた、創造性豊かな作品として識者の評判は高かったが、文展の審査においてはあまり高い評判を得ることができなかった。
また、1917年(大正6年)の文展では、村上華岳と小野竹喬が前年特選を受賞したにもかかわらずこの年落選するという出来事も加わり、麦僊の文展への不信感は強まるばかりであった。
1917年の文展を契機として麦僊は当時の沈滞しきった文展に別れを告げ、純粋な創作活動と真の近代日本画を追い求めるため新しい会の結成に参加した。個性の尊重、創作の自由と自己の絵画上の理想を実現するために結成された会は、国画創作協会と名づけられた。創立会員は村上華岳、野長瀬晩花(のながせばんか)、小野竹喬、榊原紫峰、土田麦僊の5人で、独自の展覧会を開催するとともに次々と力作を同展で発表していった。
麦僊は第1回展《湯女(ゆな)》を出品。桃山障壁画やルノアールの情感など、これまでの勉学によって得ることができた官能美が総合されて華麗に表現されている。翌年の第2回展に出品した《三人の舞妓》では一転して情感をおさえた静かなる美を追い求め、1920年(大正9年)の《春》では宗教的ともいえる作風で庭にあそぶ母子の姿を慈愛をこめた目で描いている。
1921年、麦僊は長年にわたり憧れてきた西洋絵画を学ぶため、竹喬、晩花、黒田重太郎(じゅうたろう)とともに欧州旅行に出かけた。この洋行には華岳と紫峰も参加するはずであったが、華岳は健康上の理由で、紫峰は出発直前に妻を亡くしたため同行しなかった。5人のうち3人の会員が日本にいなくなたため国画創作協会(国展)は第3回展をもって一時休止することになった。
ヨーロッパに渡った麦僊は初めフランスに滞在、美術館や画廊を訪れ印象派や後期印象派の作品を観て回り、気に入ったセザンヌ、ルノワール、ルドンなどの作品の収集を意欲的におこなっている。また、パリ郊外のヴェトイユ村では風景画の研究を、パリでは人物画の研究を慣れない素材を用いておこなった。その間イタリヤ・ベルギー・オランダ・ドイツ・を旅行、多くのすぐれた作品を直接観て大いに満足を得ている。
とくに深い感銘を受けたのはイタリアにおいてであり、フレスコ画には日本画との共通点を見いだしている。ヨーロッパで麦僊が研究した成果は満足のいくものではなかったが、日本画に対しての自身を回復したことと、帰国後に渡欧の成果を展覧会で発表しなければならない課題を残したことによって、以後の麦僊の創作活動に大きな転換をもたらしたのである。
帰国後の翌年、1924年(大正13年)に開かれた第4回国展に麦僊は《舞妓林泉(ぶぎりんせん)》を出品した。麦僊の代表作となったこの作品は渡欧によって得た成果を描き出したもので、色彩豊かな画面と緊密な構成をもち、すぐれた様式美が華麗に示されている。また、この年から国画創作協会では梅原龍三郎らを招き洋画部をもうけた。この洋画部が現在運営されている国画会の前身である。
第5回国展出品作の《芥子(けし)》で一転して静寂さを示した麦僊は、東洋の古典に戻って内面的な美を求めている。第6回国展には構想をもって完成するまで4年の歳月を費やした《大原女》を出品、麦僊芸術の1つの極致を示した。しかし、国画創作協会は会の運営に経済的破綻をきたし、1928年(昭和3年)の第7回国展を最後に解散した。
国画創作協会の解散後、麦僊は竹喬とともに帝展に復帰、美しい色彩あふれる《罌粟(けし)》を出品してし帝展に力を傾けた。帝展への復帰をはさんで麦僊の関心は再び東洋の古典へ向かい、画面からは様式的な美、浪漫的なものは消え去り写実を重視しながらひたすら精神的な深まりを追求するようになった。1930年(昭和5年)からは人物画に戻り、《明粧(めいしょう)》《娘》《平牀(へいしょう)》と制作を続けた。また1930年から始まった七絃(しちげん)会(会員は鏑木清方(かぶらききよかた)、菊池契月(けいげつ)、小林古径(こけい)、土田麦僊、平福百穂(ひらふくひゃくほ)、前田青邨(せいそん)、安田靫彦(ゆきひこ)には《蓮華》《甜瓜(てんか)図》《山茶花(さざんか)》などの草花図を主に出品している。
1933(昭和8)年挑戦に取材し、清浄と静寂さが漂う《平牀》を制作した翌年、麦僊に大きな不幸が訪れた。春に弟に杏村(きょうそん)が亡くなり、夏には息子のように可愛がっていた兄の子である多喜雄も亡くなっている。この2つの出来事は麦僊に大きな落胆を与えたと同時に、制作の気力を一時的に失わせる結果となった。
同年麦僊は帝国美術院会員に任ぜられた。しかし、1935(昭和10)年美術界の統一を意図した松田文部大臣の帝展改組案が出され、これにより生じた帝展内部の混乱の収支に奔走したことがいっそう麦僊の心労を増すことになった。このときすでに病は麦僊の体をむしばみはじめ、秋に再び挑戦にわたり取材を行っている間にも体は不調を訴えていた。帰国後、すぐに《妓生(ぎせい)の家》の草稿にかかり制作にあたったが翌年1月に吐血、十二指腸潰瘍の手術を受け退院したが、病身を押して紛糾を続けていた開祖帝展の事態解決のために駆けづりまわり、5月に再び倒れ、6月膵臓癌のため49歳の若さで世を去った。
明治末期、大正期、昭和初期と麦僊が西洋絵画と日本画の融合を試み、新しい近代日本絵画の創造を目指して制作した作品は、近代日本画史上に誇るべき業績であった。また深く内在する東洋的精神が発露された晩年の作品も、その芸術性とともに時代の流れを超え高く評価されるであろう。
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