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すぎやま やすし

杉山寧

略歴

1909年10月20日 - 1993年10月20日(享年:84歳)

1909年 浅草に生まれる。

1929年 東京美術学校日本画科入学。

1933年 東京美術学校日本 画科卒業。

1974年 文化勲章を受章、あわせて文化功労者となる。

1987年 杉山寧展(東京国立近代美術館、富山県立近代美術館)開催。

1992年 「杉山寧の世界」展が東京近代美術倶楽部で開催。《淑》制作。

1993年 死去。享年84歳。

杉山 寧(すぎやま やすし)明治42年東京に生まれる。東京美術学校日本画科を卒業。松岡映丘に師事する。代表作の「水」はナイル河へ水を汲みに通う女性とナイルの流れが寸分も動かしがたい構図であり杉山作品の中でも逸品中の逸品である。昭和49年に文化勲章を受章。

その芸術の出発

 杉山寧は、明治42年(1909)10月20日、東京浅草区(現在の台東区浅草)三筋町で生まれた。府立第三中学校(現在の都立両国高校)を卒業する前年の年、大正15年(1926)5月1日竣工の東京府美術館(現在:東京都美術館)開館記念展「第1回聖徳太子奉賛美術展覧会」があり、杉山は、そこに出品されていた竹内栖鳳の《蹴合》を見た。軍鶏の壮烈な闘争を描いた大作である。

 この時、日本画では速水御舟の《昆虫二題》や藤島武二の《芳惹》、高村光太郎作の《老人の首》などが出品されていた、特に速水御舟の昆虫を描いた双幅《昆虫二題》を見ていたことは重要で、御舟は、同じ浅草猿屋町の育英小学校の卒業の先輩であり、杉山は栖鳳の印象ぐらいしか思い出を持ち合わせていないというが、写生という意味を感得するまで、大きな示唆を受けたと思われる。

 昭和3年(1928)東京美術学校日本画科に入学し、新興大和絵の代表画家松岡映丘に学んだ。松岡映丘は、当時から帝展日本画の重鎮であり、東京美術 学校教授として教壇に立っていた。

 映丘は、大正10年(1921)、新興大和絵会を岩田正巳、穴山勝堂らと興したが、この会は昭和6年(1931)に第10回展で解散しており、同じ頃、映丘塾を「木乃華社」として門弟を指導していた。昭和6年(1931)の12回帝国美術院展に《水辺》を初出品して入選した杉山は、新聞紙上で京都の菊池契月に、精妙な素描力により悠揚たる風格があると賞揚された。同年の《椿と乙女》で、その透徹した 才能の片鱗を見せ、翌昭和7年(1932)秋、美校最後の学年の第13回帝展に千葉県外房の太海(鴨川市波太)を背景に生家近くの女子をモデルにした《磯》を出品して、入選二度目で特選となり、一部特選の最年少(23歳)として一躍注目された。

 昭和8年(1933)、東京美術学校を卒業する。卒業制作《野》は、江戸時代の《武蔵野図屏風》をみるような野原と子供を描き、首席に選ばれた。《翠蔭》がこの年の帝展に無鑑査出品となり、卒業後は、松岡映丘率いる「木之華ネ士」の例会に時折出席した。この会は、松岡の門下生が新興大和絵を推し進めようと先輩の吉村忠夫、服長部有恒、山口逢春、岩田正巳などのグループに、もう一つ若い橋本明治など門下生60人が加わっていた。

二つ目の特選

 昭和9年(1934)、25歳で第15回帝展に《海女》を出品、爽やかで鮮やかな色彩を駆使して、海に働く海女の健やかな美を表現して、2度目の特選となり、華々しいデ ビューを飾った。この年、京都市立絵画専門学校在学中の西山英雄が23歳で帝国美術展覧会の特選に輝いた。神戸の港湾風景を描いた《港》である。西山の2度目の日展〈帝展を引き継いだもの)特選は13年後の昭和22年(1947)であるので、いかに杉山の2度の特選受賞が早かったか、早熟ぶりが分かろう。

 昭和22年、第3回日本美術展(日展)特選を東山魁夷の《残照》(東京国立近代美術館蔵)が受賞した。長い彷徨を続けた魁夷が、夕日に照らされ、壁のように重なる鹿野山(千葉県)の山並みが時々刻々と変化する様を、自然と一体化する如く言皆言周豊かに描きだした作品である。

 杉山は、師松岡の助言により、昭和9年(1934)春、映丘門の若い有志、1年後輩の浦田正夫、岡田昇、松岡(河部)貞夫と「瑠 爽画社」を結成した。映丘は、杉山に9歳年上の山本丘人をこの結社に入れることを薦め、丘人を合わせたこの5人に「思い切った実験的な研究をしてごらん」と自由制作を奨励した。

 この瑠爽画社は、月に1、2度、各会員の家に集まって研究を重ね、映丘塾である「木乃華社」の中では特別扱いで、この研究会に後に3歳年下の高山辰雄が加わった。

 昭和10年(1935)6月、杉山は、瑠爽画社第1回展に《黒い海》、《漁村1》、《漁 村2》、《少女》などを出品、前者の3点は房総の波太の海岸風景を蒼い毎を爽やかな透明感で描きだした。こうして杉山の豊かな感性は、鑑賞界にも迎えられ始めた。

 瑠爽画社のメンバーは、対象のフォルムを的確につかむ写生に力を入れ、白雨の大和絵の技法に加え、東洋古典の宋元画の写生なども研鑽する。この年、木之華社は、木之華会と改称した。

 この年は、帝展が松田改組で紛糾し、秋の展覧会は中止となり、翌昭和11年(1936)に行われた第1回帝国美術院展に、《女帝女群像》を出品する。同11年(1936)、27歳で結婚、自宅から小石川区雑司ヶ谷(現:文京区目白台)に移り住み、8月には室生寺を訪ね、2週間ほど滞在、仏像などを写生する。

 昭和12年(1937)、瑠爽画社第2回展に《馬(其の1)》《馬(其の2)》を出品、この研究会では 線描と淡彩の薄塗りに向かい秋の新文展(1回文部省 美術展覧会)に屏風の大作《秋意》を出品、宋元画に学んだしみじみした情感に満ちた賦彩法によって朝鮮馬を描き、清潔な大和絵風が広見え、白馬に寝そべる半島 の少女と西瓜が画面に奥行きを添えた。

 瑠爽画社の研究会に高山辰雄は在学中から加入してしいたが、出品は卒業したこの第2回展からで、この時、須田洪中も加わった。

瑠爽画社の解散・長しい沈黙・東洋美術の憧れ

 昭和13年(1938)、恩師不公岡映丘が亡くなり、瑠爽画社第3回展に杉山は《七面烏》、《霜辰》など、山本同様に5点を出品したが、この展覧会はこの年解散する。杉山は、昭和13年(1938)秋、鎌倉極楽寺に転地して療養し、闘病生活をするが、焦らずに健康の回復に努めた。

 昭和14年(1939)春には、体が快方に向かい、雑司ヶ谷の自宅に戻った。杉山は女の手一つで育てられた女系家族で家作があり、生活に困ることはなかったが、病に伏した杉山は、不治の病といわれた胸を病み、長い沈黙をせざるを得なかった。しかしこの余儀なくされた療養期が、深遠で静語な画境を開く契機となった。瑠爽画社では大下絵 を練り上げて本画に移す東京美術学校の正統的なやり方を受け継いで制作を進めた。写実を根本に、如何に時代に合った近代感覚〈モダ二ズム〉を画面に盛り込むかを研鑽 してきたが丶瑠爽画社解散後、この頃から世に認められてきた山本丘人と杉山の2人を除いて、高山辰雄らが瑠爽画社の精神を受け継いで研究会「一采社」を作り、研究を続けた。

 瑠爽画社が解散し、以後12年にわたり沈黙し続けた杉山は、昭和17年(1942)、中国の旅から帰国すると吐血して 絶対安静となるが、昭和18年(1943)、6年ぶりに第6回新文展に《大同霊厳》を出品する。この時の大同石仏の素描を見ると、既に西洋の造形の眼を備えており、優れて西洋的な眼と造形精神に拠った新しい作風が始まる。この病床に伏すという苦難を克服し、両洋の眼を獲得したことが、杉山を大きく深く成長させたのである。

戦後の出発~新しい造形へ

 普通、画家は、形の把握に優れるが丶色彩感覚が今一歩であるとか、その反文才の宝船があるとか言われることが多いが、そうしたことを超えて、素描力と構成力という二つながら の大きな才能を杉山は、兼ね備えているというのである。こうして杉山の写生、描写力には岸田劉生や速水御舟に見ることのなかった健康的で清明さ が備わり、劉生のデロリとした美という末梢性、デカダンスや、後者御舟の文寸幅《昆虫二題》の「米圧虫我舞虚遣」、「葉蔭麿手」に見える神秘性や神経質な苛立ちのないえ豊明な画家であることを証している。昭和20年(1945)、海軍に召集され、横須賀海兵団に出頭、即日、り語多良区を命じられるなど 苦労を重ねるが、6月、家族の疎開先、信州戸倉温泉で素描に努め、終戦を迎えた。

 その制作作法として京都では明治35年(1902)から京都府画学校では従来の坐業を改め、画架(イーゼル)と椅子を導入し、支持体を立てて描く方法が取り入れられていたが、当時の東京美術学校は、いまだ軸を床に置き、横にして描くことが伝統になっており、岡倉天心以来の橋本雅邦などの相伝である狩野派のやり方が幅を利かせていた。杉山はそれを改め、和紙からキャンバスへの支持体の研究も実を結びつつあり、劉生の言う「美術の精髄は素描にある」ということを体現できたのである。そのため、戦後も早い時期に次の飛躍への契機をつかむこととなる。

▣寧の凄み
 中学時代までは画家志望でなく、美校在学中も目立たなかつた杉山ではある が、速水御舟や東洋絵画、特に美的感動を受けた法隆寺壁画や宋元画などの深い画境をめざし、一方で大手口絵の技法などに加えて、モダ二ズムの洗礼を受け、セザンヌの西洋画の造形原理を学んで、空間の扱い方をどのように日本画に生かしていくか研究を深めていく。それを美術評論家河北倫明が言うように、杉山は「対象の観察が厳しく、個々の物体を的確に描写し、表現できる第ーの才能」と「構図や画面構成に空間全体を澄明に把握し、受け止める第2の力、この2つの才能を兼ね備え」ており、この車の両輪に当たる2つの才能を統合すると、多彩な空間処理が可能であり、「徹底的に仕事を煮詰めていくのが杉山なのだ」と指摘する。

戦後画壇への登場

 昭和25年(1950)、第6回目日展に東山魁夷の《道》が出品され、経済的に復興し始めた日本の行くべき道筋を提示したと評価された。東山は、杉山よりー歳年上である。 

 翌26年(1951)、杉山は、第7回日展に巨牛に腰かけた裸婦による《エウロペ》を出品、戦後初めて大作を発表、長い沈黙から脱して堀爽と画壇に登場し、注目を集めた。

 それは、第一に題材をギリシャ神話にとった、かつてない主題であること。それが厳格・緻密に構成された素描の動きが現れて、形の抽象に行きつく。重厚な描写とシンプルな画面構成によってモダンで新鮮な感覚、、モダニティー(新しい造形性)が盛り込まれた。

 第二には、日本画の材料と質の問題点を杉山が解決したこと。これはモダンな新しい秩序を画面に作り出す力強い画家の登場が待たれており、この力強さが、画壇に迎えられたのである。

 材料について言えば、明治以降、西洋から導入された油絵の絵具は、美しい画材というよりも、どちらかというと汚い材料であると考えられてきたが、それに対し、杉山は日 本画特有の岩絵具のキラキラと輝く美を生かし、豊富な色彩を用意する。光に反映して粒子が輝き、顔料の質を引き立てて、日本画の特有の色面の美しさを発揮する。これらが 《エウロペ》がエポック・メイキングなデビュー作となった理由である。

 杉山は、独自の写生力によって、戦後の洋画に見られる ノンオブジェクティブ(非対象)アプストラクト、非対象絵画や抽象表現主義に対処できる方法論を培っており、また描くテーマは、富市松岡映丘が歴史画や風俗画を中心にしたことに比べ、格段と領域を広げた知的に構成する緩みのないものとなった。日本画は、身近な絵画として日本人に深く浸透してきた歴史があるけれども、その存立の危機感を抱かせたのは、上記のように、欧米の抽象表現主義やアンフォルメル(不定形主義)の流行であった。

 昭和23年(1948)には日本画の芸術的退行を叫んで、その沈滞を打破しようと気鋭の日本画家による「創造美術会」(現在の創画会)が創立され、昭和25年(1950)以降も日本画が桑原武夫の『俳句第二芸術論」に引き付けて言命じられ、そのあり方に危機感が広がっており、昭和31年(1956)の『世界今日の絵画展」ではアンフォルメルは常識を覆すような迫力を示し、翌32年(1957)には画家ジョルジューマチュー(フランス)が来日、東京都内で、絵筆に拠らず、絵の具を投げつける公開制作を行い、これらを見た若い画家たちは、こうした線と形によって対象を描くものから、ドリッピングスポアリング(たらし込み、注ぎ込み)などの技法による非対象絵画アクション・ペインテングが成立し、熱い抽象として存在できることを認めた。2つの世界大戦を経て、諸星乱の極みにあった画壇は、生きた美術として抽象表現主義とアンフォルメルを受けとめたのである。そういう中での昭和26年(1951)、第7回日展に《エウロべ》が登場した。日本画の革新が叫ばれていたさなかで杉山は、戦後初めて出品した大作である。

 この《エウロペ》で示した西洋的な自然観、それが彼の内なる自然観を組み込んだものとして昇華され、古代の悠久な美に触発された写生となっていた。それは、必然的に国際的な新しさ、フランス語でいうモデル二テが加えられたものであった。

 絵の支持体を和紙から画布(キャンバス)に改変し、制作技法に変化をつけ、モティーフを日常生活の写生に採り、作品にメリハリをつける。外からの条件に縛られずに描いた、表紙と原寸で制作した370点近くの作品群である。いつも本画的なものでは大変であるし、またそれでは画 一的過ぎるとして、月によって制作法を変え、また床の間芸術として日本人に広く親しまれたいわゆる日本画という観念を変革したといえよう。

抽象的傾向の時代

 この頃、京都では堂本印象が日本の書に関心を持ち、《交響》など心の内面におこる衝動を交差す飛沫や墨線で表現し、線描と色面の純粋抽象を目指していた。こうした動きも関心を寄せていたであろう杉山は、『文芸春秋』表紙絵原画で実験作を発表しながら、昭和32年(1957)、第13回日展に「光」を意味する《耿》を出品する。《耿》のタイトルは絵の説明になることを極力避けるために付け、絵は抽象的なものに傾斜し、象徴的で あるから、その題名は、音読の一字とした。杉山は自作にどんな題名をつけるのであろうか。言葉から連想を誘い、絵画への認識を深め広げたいためである。 これ以降、杉山は、大冊ず朝陽字鑑精粋』を使用して一字題とする。漢字の発生的、字源を絵画的に活かすためである。この微妙な光を捉えた作品の翌33年の日展出品作《鳥》を経て、同34年(1959)、第2回改組日展の《仮象》が大きな波紋を日本画壇に投げかけた。

 実際に見たものを基盤として生まれたイメージであるから、抽象的象徴画がともいえるが、世界の抽象傾向に杉山はどう対処し、どんな作品を出品するのか注目が集まったのである。抽象絵画との急速な接近に見え、杉山もとうとう抽象に走ったかと噂されたのが、昭和34年(1959)第2回日展出品の《仮象》である。これは対象の心的イメージが幻想的かつ超現実的ともいえたから、単なる非対象絵画、抽象ではなく、バックの画 月几は荒壁のように凸凹状を呈して輝きを増し、あるイメージを主題としている。形象の背景に工夫を凝らし、形を単純化して空間処理に実験を加えた。幻想的なイメージの源泉は妙高高原の赤倉の夜の印象で、ここは、大正2年(1913)、岡倉天心の亡くなった場所であったから、近代日本画の恩人への追慕の念が闇に光を見た心象風景に具現化したのであろうか、夢幻に満ちた空間である。

エジプトでの連作

 特に悠久の古代エジプト美術の世界に身を置いたことは、永遠なるものを憧憬し、希求するという、彼の進むべき道を決定づけた。ギザのピラミッドとスフィンクスが、風景として彼の心に適った。エジプト美術は、紀元前4千年に発生し、千年後には国家としての体制を整え、『死者の書』のような独自の死生観、宗教観を整えた文明の賜であり、そこには多くの優れ た造形美術が生まれて、われわれを惹き付ける。その特質は、宗教美術として造形がほぼ3千年変わらなかった保守的な美術であり、づ悠久の美の最たるものして杉山はそこに魅かれていた。

 昭和36年(1961)、秋の第6回新日展に出品の横長の《悠》は、ピラミッドを背景に、横向きのスフンィク スを描く。ピラミツドとスフィンクスの印象に角度を変えて取り組み、何枚も描いた。タイトルは遙かなるものという意味を込めている。名高い同37年(1962)、第7回新日展の出品作《穹》は、永遠の造形を求めた作者のマイルストーンである。題名は、「広く大地におおう大空」を意味いまさに葺え立ったルクソールのスフィンクスを捉えた透徹した構成である。圧倒されるスフィンクスを対象に角度を変えて執拗に写 生する。その悠久な美と風格に惹かれるものが大きかった故である。これらは、世界遺産として富と権力の象徴でもあるが、残された彼の膨大な素描のー点ー点が、見るものを古代エジプトに誘う。

 ギリシャでの収穫である昭和39年(1964)の《コレー》を経て、同年の《羊》は、エジプトの後、ギリシヤ、スイス、イタリア、スぺイン、フランスと歴訪した成果の一つである。昭和40年(1965)、高度成長のさなか、日本でエジプトのツタンカーメン展が開催され、ツタンカーメン王の《黄金のマスク》に日本中が熱狂した。この年、新日展第8回展に《水》発表する。下部は、灼熱の砂の土色、石少漢の国エジプトの広いナイル川に、黒衣の甕を 持つ一人の女性が大地に立つ。その女性に悠揚たる人生に影が宿り、その強い日差しとその背景の紺碧のナイル川がまぶしい。海は万物の根源であり、人間もこの海から生まれたとも感じられる。杉山は、海墓や水を得意のモティーフにした。まさに目で見、肌で感じる旅の収穫であった。昭和52年(1977)の《ネフレトイ象(第4王朝)》は、永遠の生命を宿す気品あふれる第お4王朝紀ヘリオポリス太陽神殿の大司祭の妻である。この石灰岩の肖像には杉山が魅かれたのは、エジプト5千年の興亡を自らの自に焼き付け、悠久を見詰める眼差しがあったからである。

人体・裸婦の時代

 昭和44年(1969)3月、社団法人日展が改組され理事となる。この第1回改組日展に《晶》を出品する。「晶」とは深海の清例な澄み切ったさまを意味するが、2人の人物によって縦と横との組み合わせをもくろみ、モデルに海を泳ぐ様をさせて構成したという。この作品が裸婦連作の最初となり、翌45年(1970)に第2回改組日展の落下する瀑布を背景にした脚を上下に挙げた女性の単独像《響》が生まれる。

 昭和26年(1951)の話題作《エウロペ》から裸婦のテーマから遠ざかっていた杉山は、最初の人物像として改組第1回日展に《晶》を発表したのである。同45年(1970)の《善》は、静と動の対照を奔放なポーズの女性人体によって表わし、「近年、私は繰り返して裸婦を主題として描いた。しかし、特に人物だけに興味があったわけではない。新しい空間構 成を生み出そうと考えていたときに、その要素として裸婦のイメージが心に湧いて来たのである。むしろ構図が捕守して、それにふさわしい裸婦のポーズが決定されたといえるであろう」と杉山はいう。

 昭和46年(1971)、第3回改組日展の《生》は、叙情的な表現を超えた馬と裸婦を組み合わせ、背後には馬事公苑で写生した褐色と白の2匹の馬が控える。重力と静の 造形感覚は新鮮で、古典的な健康な女性一人のギリシャ的な形態に彫刻的な濡る力が画面にあり、自然に学ぼうとする作者の意図が明確である。

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