むらかみ かがく
略歴
1888年7月3日 - 1939年11月11日(享年:51歳)
1888年 大阪に生まれる。本名は武田震一。
1903年 京都市立美術工芸学校入学。
1908年 第2回文展で「驢馬に夏草」が初入選、三等賞。
1909年 京都市立絵画専門学校入学。同期に土田麦僊、小野竹喬など。
1911年 第5回文展で「二月乃頃」が褒賞受賞。
1914年 全国美術工芸品博覧会で「夜桜之図」が入選。
1916年 第10回文展で「阿弥陀之図」が特選となる。
1917年 竹内栖凰、小野竹喬らと国画創作協会を結成。
1919年 第2回国展に「日高河清姫図」を出品。
1920年 第3回国展に「裸婦図」を出品。
1928年 新樹社賛助員となるが、画壇から離れていく。
1933年 「巒峯春雪図」制作。
1938年 「梅柳早春」制作。
1939年 死去。享年51歳。
村上 華岳(むらかみ かがく)大阪生まれの日本画家。山水と仏画を主題とした作品を多く描く。東洋と西洋の様式を独自に解釈し、しかも宗教的な境地から生まれる神秘的な作品を多く残した。
村上華岳は1888年(明治21年)、大阪市に武田誠三、たつの長男として生まれた。本名は震一。祖母にあたる池上雪枝はもと近衛家に仕えたこともあり、日本で初めての感化院にあたる修徳院を創設した人物としても有名である。誠三はその長男で朗峰と号し、医者とも学者ともいわれている。なかなかに偏屈なところがあり、後年は不遇な人生を送った。事実、華岳自身早くから叔母の千鶴子の嫁ぎ先である神戸の村上家に預けられ、父誠三没後はいったん武田家をつなぎながら、1904年(明治37年)には裁判で武田家を廃家にしたうえで村上家と養子縁組をしている。華岳はのちに友人である小林和作に、「僕はごく小さい時に父母が道ばたで夜店を張っていて、僕は商品の傍らの籠の中へ入れられていて、その辺にかゝり火が燃えていた事をかすかに覚えている」とその幼少時代を語っているが、幼いころに一家が離散し複雑な家庭環境を育ったことは、華岳の心に大きな痛手を与え、晩年に至るまで甘い感傷とともにその内面に暗い影を落としていたことは否めない。
村上家は神戸の花隈にあり、土地と貸家をかなり多く持っていた。その周囲はいわゆる花町で、華岳は弦歌さんざめく場所で幼少時代を送ったわけである。華岳性的に早熱であったといわれている。確かにその作品にはしばしば男女の心の機微にも通じるような、なにか艶めいた雰囲気が感じられるが、それはおそらくこうした環境に育ったことにも関係があるのであろう。
叔母夫婦には子供がなく、義理の父親である村上五郎兵衛も華岳を実の子供にように可愛がったらしい。幼いときから体があまり丈夫でなく、絵を描くのが好きだったので、養父は画家では体が持たないので図引きにでもしようと考えていたという。そして1903年(明治36年)に神戸尋常高等小学校高等科を卒業後、京都市立美術工芸学校に入学、京都の柳馬場三条下ルにある印刷屋三上似玉堂に寄寓した。このとき、養父の五郎兵衛が教師に、華岳に絵を習わせるが、絵で衣食をたてさせるつもりはなく、絵かきになるであろうが、絵で衣食をたてることはないであろう、と語ったという話は有名である。周囲の深い理解に支えられた、華岳の画家としての出発は当時としてはじつに恵まれたものであった。
京都市立美術工芸学校の前身は1880年(明治13年)に開校した京都府画学校で、当時は絵画科、彫刻科、図案科などがあり、修行年限は4年、そのうえにさらに各科に修行年限2ヶ年の専攻科(のちの研究科)がおかれていた。華岳が学んだのは絵画科で1907年(明治40年)に卒業、研究科にすすんでいる。卒業制作は《羆(ひぐま)》であった。
この年、日本の近代化そのものと同じように上から作り上げられた官製の展覧会とはいえ、西洋のサロンをまねた展覧会が組織された。この文部省主催の美術展覧会(文展)は、それまでバラバラに活動してきた諸流派っを統合し、競い合わせる場として機能し始めた。それはある意味で画家の画壇的、さらには社会的地位をも決定づけるものであり、大家といわれる人のみならず、若手画家の多くが入選を目指して、そろって出品したのである。華岳ももちろん出品するが、第1回展に出品した《竹藪に狸》は落選、翌年の第2回展での《驢馬(ろば)に夏草》が入選、三等賞となっている。
文展の開催、あるいは東京ですでに開校されていた東京美術学校、そして日本美術院のめざましい活動は京都画壇を強く刺激し、よりレベルの高い美術教育を施す専門機関を創設する要請が京都にも高まった。こうした美術界の動きに対応して、1909年(明治42年)4月に開校されたのが京都市立絵画専門学校で、華岳はその第一期生として入学、5月には本科2年に編入した。同機には本科で入江波光、榊原紫峰、別科に土田麦僊(ばくせん)、小町竹喬(ちくきょう)らがおり、こののちに京都の画壇を背負って立った俊英たちが、すでにここに集まっていたことは注目すべきである。教授陣には竹内栖鳳(せいほう)、菊池芳文(ほうぶん)、谷口香嶠(こうきょう)、山元春挙らがおり、美術史の講師として中井宗太郎がいた。なかでも東大出の、当時弱冠29歳であった中井宗一郎の役割は大きかった。彼は個性の解放、個性の自由こそが創作という行為そのものであることを説き、自然の前には純粋で謙虚であるべきで、決して自然を様式的にはとらえないよう主張した。これは東京での白樺派との関連性を強くうかがわせるものであるが、いずれにせよこの大正期の自我の主張を基本とする新しい美術思潮の芽生えは、華岳をはじめとする生徒たちに大きな影響を与えずにはおかなかった。ある意味では文展離脱から国画創作協会の創立へと走る彼らの行動は、この時点で決定づけられていたともいえるのである。
1911年(明治44年)、華岳は卒業制作に《早春》を描いて京都市立絵画専門学校を卒業、研究科にすすんだ。この《早春》は《二月乃頃》と題名を改め、第5回文展に出品して褒状となった。しかし1912年(明治45年)の第6回文展での《田植の頃》、1914年(大正3年)の第8回文展での《平野》はともに落選、再び文展に入選したのは1915年の第9回文展の《春耕図》であった。そして、この年の暮れには兵庫県の人、高木よしのと結婚、翌年の春に東山高台寺円徳院に居を定めた。その年、華岳は第10回文展に《阿弥陀之図》を出品して入選、しかも特選となって画壇での地位もほぼ安定したかにみえたが、翌年の第11回文展では再び落選の憂き目にあってしまった。
当時の文展は1914年(大正3年)に日本美術院が再興され革新的な勢力が抜けてからは、どちらかといえば保守的な勢力が内部を支配していた。ところで華岳は文展に出品する一方、桃花(とうか)会、密栗(みつりつ)会、光芒(こうぼう)といったグループ展に、「日本画ともまだどちらともつかぬ」作品を発表していた。こうした試みを通じて新しい道を模索していた華岳が、保守的で頑迷な審査員の多い文展で当選を繰り返すのは当然であった。
これは絵画専門学校で同期の、土田麦僊や小野竹喬についても同じことがいえた。新帰朝者である田中喜作を中心に、黒田重太郎などの洋画家を含めた黒猫会(シャ・ノアール)、仮面会(ル・マスク)といった研究会や発表会に参加、そこで当時の西欧の絵画状況に強く触れていった。なかでも麦僊は後期印象派のゴーガンの強い影響を受けて、第6回文展に《島の女》、第7回展に《海女》、さらに古典に返りながらそれを大胆に解釈しなおした《散華》を第8回文展に、第9回展に《大原女(おおはらめ)》を出品したが、伝統的で守旧的な審査員の受け入れるところとはならなかった。
とくに華岳が落選した年は、同じく前年に特選であった竹喬が落選ん、麦僊の《春禽趁晴(きんちんせい)図》、榊原紫峰の《梅雨霽(は)れ》が世間の大方の好評にもかかわらず入選こそすれ無賞であったことで、彼らのかねてから積もっていた不満が一気に爆発、1918年(大正7年)1月には宣言書ならびに規約書を発表して、国画創作協会が発足した。会員はほかに野長瀬晩花(せばんか)、2回目からは入江波光が加わり、顧問として中井宗太郎と竹内栖鳳の名が連なっていた。「生ルルモノハ芸術ナリ、機構ニヨッテ成ルニアラズ。此レヲ霊性ノ奥ニ深メテ人間ノ真実ヲ発揮シ、此レヲ感覚ノ彩ニ潜メテ生命ノ流動ニ透徹ス」。この宣言文の始めの部分からも読み取れるように、それは、文展への反発という以上に、芸術の創造にあってあくまで自我に忠実であらねばならないとする若い画家たちの純粋な気持ちの現れであった。と同時に、そこには大正という大きく躍動する時代の空気そのものが色濃く反映されていた事実も見逃してはならない。国画制作協会の運命もそれに大きく影響されるからである。
とはいえ、華岳この企てに最初から積極的に加わっていたとは思えない。団体の運営ということになれば、金銭的な問題、そして複雑化する人間関係を処理をしていかなければならなかった。はたしてそれが純粋な芸術活動の助けになるのか、あるいはかえって妨げになるのではなかろうかという危惧は華岳の胸中に最後まで渦巻いていたらしく、そのことは残された日記のはしばしに書き込まれている。確かに国画創作協会への参加を決意してからは、みずから理由書の原案を起草するほど積極的にその創立と運営にかかわってきた華岳であるが、この心にわだかまりがその後、国画創作協会から自然に華岳を遠ざけていったことは間違いない。
国画創作協会の第1回展は1918年(大正7年)の11月に日本橋の白木屋を会場に開かれ、入選作9点、選外佳作6点を含めた20点が展示された。その後、1921年(大正10年)の麦僊、竹喬、晩花、波光らが渡欧したことや、1923年の関東大震災のために3年間展覧会を休止したのをのぞき、国画創作協会は1928年(昭和3年)の第7回展を最後に解散するまで続いた。一般的に世評はきわめて好意的なものが多く、華岳も第1回展に《聖者の死》、第2回展に《日高河清姫(きよひめ)図》、第3回展に《裸婦図》、第4回展には《説法の図》《餞暑瓜茄(せんしょか)之図》ほか2点、1926年(昭和元年)の第5回展に《松山雲煙(しょうざんうんえん)》を出品した。
一見して順調な歩みを辿っていたかにみえた国画創作協会であるが、一面その運営が大正初期の好景気に支えられていたものだっただけに、一度日本の経済状況が悪化すると、団体を維持するための経済的、精神的な負担が会員個々に重くのしかかるようになったことは想像に難くない。会の経営のための活動が、初期の創立目的であった純粋な芸術活動をかえって妨げるようになると、1921年(大正10年)ころからしばしば起こすようになった喘息の発作からくる肉体的な問題もあってか、華岳は国画創作協会から次第に距離を置くようになった。1923年(大正12年)、京都から兵庫県精道村芦屋(現・芦屋市)へ移ってからは、こうした気持ちはますます強まったようで、1927年(昭和2年)4月の手記に描かれた中井宗太郎宛ての書簡の下書きでは「自分は向後、明らかに展覧会に出したいといふ気がしませぬのです。反つて純粋に神興を害するやうです。世間に騒がれもすると、むしろ勉強が出来ぬ気がします」「もし諸兄が国展から私を除いて下さらば結構とも思つてゐます」と述べ、国画創作協会からのりだつっを直接的に示唆している。実際、1926年(昭和元年)の第5回展を最後に華岳は国画創作協会への出品をとりやめ、1927年には神戸市の花隈(はなくま)の養家に戻って、以後画壇とのつながりをほぼ絶ってしまった。そして翌1928年(昭和3年)には、国画創作協会も経済的事情を理由に解散せざるをえなくなったのである。
神戸に隠棲してからの華岳は、1935年(昭和10年)に東京丸の内の日生生命ビルで開かれた個展、1937年に師栖鳳の病気を湯河原に見舞った以外はほとんど神戸を動くことはなかった。人を避けて画室に籠り、ときとして六甲に山々を逍遥(しょうよう)する画業三昧の生活に、その画境をひたすら深めていったが、1939年(昭和14年)、喘息の発作がもとで急逝してしまった。
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