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きしだ りゅうせい

岸田劉生

略歴

1891年6月23日 - 1929年12月20日(享年:38歳)

1891年 東京市銀座に岸田吟香、勝子の四男として生まれる

1905年 6月に父が、12月に母が相ついで死去

1906年 中学校を中途退学する

1908年 葵橋洋画研究所に入り、黒田清輝に油絵を学ぶ

1910年 第4回文展に2作を初出品し、入選する

1912年 武者小路実篤と知り合い、以後『白樺』同人と親交を結ぶ。フュウザン会に参加

1913年 小林蓁と結婚

1914年 長女麗子誕生

1915年 草土社を創立

1917年 神奈川県鵜沼に転居

1922年 春陽会発会に際し、客員として参加する

1923年 京都に転居

1926年 鎌倉に転居

1929年 満鉄の招待で大連にわたる。12月20日、山口県徳山にて死去

岸田 劉生(きしだ りゅうせい)東京生まれの洋画家。克明な写実と深みのある精神表現を追求した。代表作の「切通しの写生」(東京国立近代美術館)や後期自分の娘を描いた「麗子像」などの作品を発表した。

劉生という人間 ー 大きな腕白者

 劉生没後から今日まで、この画家をめぐる階層や研究、そして画集が数多く出版され、また展覧会もたびたび開催されている。1991年に生誕100年にあたり、これを記念した展覧会が、東京、藤沢、笠間で開かれ、多くの観衆を集めた。それは、今日もなお、劉生の作品がわたしたちを魅了してやまないからであろう。その作品には、どれ1つとっても、自画像であるかのように、人間劉生の相貌が強く表れているが、このことは、作品ばかりではない。劉生は、生涯に多くの文章を発表し、また克明な日記を書き残している。それらを一読する者は常に、「自分は.....」「自分の.....」で始まる文章に辟易してしまうだろう。

 このような、自我を主張してやまない画家のアクの強さの為に、当時から、熱烈な称賛者と痛烈な批判者を生んでいたのである。そうした劉生の性格について、よき理解者であり、友人であった小説家の長與善郎(ながよ よしろう)は、「岸田は露骨なエゴイストだ。子供のようにエゴイストで、我儘で、無遠慮だ」と断じながらも、「岸田の我儘に閉口する人でもその我儘の根は岸田の無邪気さにある事を知るものは岸田を憎めなくなって微笑んでしまう。岸田は大きな腕白者だ。気難しいが機嫌のいい時は一種好々(こうこう)爺然たる可愛さがあり、愛さずにはいられない」と評していた。たしかに、劉生は、ときに傲慢と思われるほどの自信家であり、思いどおりにならないときは癇癪をおこし、逆にあるときは淋しがりやで、反省と自己嫌悪をくり繰り返すというように、かなり振幅の激しい性格だったようだ。この自己に執着しつづけた劉生というキャラクターと、そこから生まれた作品は、じつに多くの問題を持っているといえるだろう。それでは、そうしたキャラクターが、どのように形成されていったのか、青年期を中心に劉生の生涯を辿ってみることにする。

銀座に生まれて

 1891年(明治24年)6月23日、劉生は岸田吟香、勝子の四男として生まれた。父吟香(本名銀次、1833-1905)は、現在の岡山県久郡に生まれ、大阪で蘭学を学んだのち江戸に出て、J.C.ヘボン博士を助けて、わが国最初の和英辞典『和英語林集成』を出版し、明治維新後は、「東京日日新聞」紙上で筆をふるうなど、幕末維新期のユニークな起業家、文筆家として知られた。36歳で結婚した吟香は、男女14人の子供をもうけたが、劉生が誕生した当時は、東京銀座に「楽善堂精錡水本舗(らくぜんどうせいきすいほんぽ)」の看板をかかげ、間口8間の大店を開いており、店の半分でヘボン博士より調剤を教えられた丸薬精錡水などの薬を、もう半分では中国からの文具類を販売していた。子供たちには1人1人に乳母がついていたほどで、劉生も何不自由ない生活を送っていたが、当時の劉生はなかなかのイタズラ好きであった。それも、愛娘麗子が伝えるところによれば、後年の作品の迫真性を思わせるような、凝ったイタズラをしていたようだ。たとえば、しんこ細工でこしらえた血まみれの小指を舗道におき、通行人が気味悪がるうちに、とうとう巡査までやって来る騒ぎになったとか、同じくしんこ細工で作った「黒髪をふり乱し、怨みの形相もの凄い生首」を、おひつにかくし、これをあけた家人が腰を抜かしたといったエピソードが残されている。こうした茶目っ気は、後々まで続いていたようだ。

第二の誕生

 1905年(明治38年)6月父吟香が没し、続いて同年12月母も亡くした岸田家は、兄艾生が二代目吟香を襲名し、家督を嗣ぐことになったが、初代当時のようには行かず、次第に家業を縮小せざる負えなくなっていった。その翌年、劉生は中学を3年で中退し、それまで絵が好きで独習していたが、1908年(明治41年)知人を勧めで、赤坂溜池にあった白馬会葵橋洋画研究所に入り、黒田清輝の指導を受ける事になった。そして、早くも1910年の第4回文部省美術展覧会に初入選(2点)を果たした。

 翌年3月、劉生は前年に創刊されたばかりの文学雑誌『白樺』を手にした。そこに掲載されたルノワールの作品図版を観て新鮮な感動を受け、その後も次々と同誌に紹介されたゴッホ、セザンヌ、ゴーガン、といった後期印象派の作品に激しく心が揺さぶられたのだった。そして、この年には、画友の清宮彬(せいみや ひとし)の知人で『白樺』同人の柳宗悦(やなぎ むねよし)を知り、さらに、同人のなかでも中心的な存在であった武者小路実篤を知った。

 劉生自身によれば、「始めは画を見に行ったものだが、それより話をするのが何とも云えぬ楽しみだった。これ迄、そう云う友達を持つ機会のあまり無かった僕にとって、この事は本当に、第二の誕生と云っていい位の力強い事だった」と回想するように、精神的に結びあえる友人を持った事は、劉生にとって重要なことであり、この交友は終生続いた。ことに、自己を十全に活かすことが、人々の幸福に連なるという武者小路をはじめとする『白樺』派の人道主義は、その後の劉生の思想に大きな影響をあたえた。

▣草土社の仲間たち
 1915年(大正4年)10月、現代の美術社主催第1回展が開かれた。その出品目録には、「謹告」として、「此展覧会は次回に開く時から草土社展覧会と称ぶ事にいたしました」とあった。これが、実質的に草土社第1回展となったわけだが、この会の名前は、劉生の出品作《赤土と草》から、劉生自身が思いついたものであった。また、このときには、劉生のほか、木村荘八、中川一政、椿貞雄、横堀角次郎、清宮彬(せいみやひとし)、高須光治など12人が出品し、以後こうしたメンバーを中心に、1922年(大正11年)11月の第9回展まで続けられた。このグループでは、のちに木村荘八が「岸田劉生は草土社であるが、『草土社』もその七八分通りは岸田劉生である」と述べたように、劉生がリーダーとして、彼の思想と画風が、メンバーそれぞれに強く影響をあたえていた。そのため、劉生風の写実絵画によって占められる同展では、劉生に兄事するもの、あるいはその才能を認めつつも、独自の方向を求めようとするものがいたのだった。

清貧な生活、代々木時代

 劉生と同じく、後期印象派に魅せられ、新しい芸術をめざす青年画家たちが参集した第1回ヒュウザン会展の折、観客のなかに1人の女性がいた。彼女は、名を小林蓁といい、学習院の漢学教授小林良四朗の三女であり、京都府立第二高等女学校を卒業後、当時鏑木清方(きよかた)について日本画を学んでいた。彼女は、たまたま友人と来場し、劉生の作品に強く惹かれ、早速手紙を書き送った。このファンレターが機縁で劉生と蓁とのあいだで文通が始まり、やがて恋愛へとすすみ、1913年(大正2年)7月2人は結婚したのだった。このとき、劉生22歳、蓁21歳であった。そして、この年の10月、代々木に2人だけの新居をもち、翌年4月には、長女麗子が誕生した。

充実の時、鵠沼時代

 鵠沼には、関東大震災のあった1923年(大正12年)9月までの6年間住むことになる。この時期が、劉生自身にも、また一家にとっても、物心両面でもっとも充実していたといえる。劉生が中心となっていた草土社展は、劉生風の写実様式が支配的であったが、次第に画壇でも、賛否を交えて注目されるようになった。また、劉生自身についていえば、1917年(大正6年)の第4回二科展では、その出品作《初夏の小路》が二科賞を受け、画壇的にも認められるようになった。これと合わせて、後援者も出来、個展を開けば多くの観客を集めるようになり、経済的にも、ようやく安定してきたのだった。また、劉生の体格も、代々木時代には痩身であったが、この地に移ってからは、健康を回復して太りはじめ、来訪する友人たちを捕まえては相撲に興じるまでになった。こうしたゆとりからだろうか、一連の麗子像をはじめとする充実した油彩画制作のかたわら、1921年(大正10年)ころから、文学や歌舞伎を観たり、長唄の稽古や日本画を描きはじめ、さらに、それまで口にすることのなかった酒をたしなむようになった。こうした趣味の変化は、次の京都時代に極端なものになっていく。

▣劉生の古美術コレクション
 劉生が、東洋的な美しさに惹かれだすと。何事にも熱しやすい彼の性格ゆえに、古美術品の鑑賞と収集も、次第に趣味をこえて、没頭するようになった。ことに、1923年(大正12年)、京都に移り住んでからは、その土地柄から、一挙に昂じてきた。劉生の当時の日記を見ていくと、しばしば自分が気に入った古美術品を手に入れる話や、また、得意げにコレクションを訪れた友人たちに見せたことが記されている。古美術に対する劉生の関心は、もっぱら中国の宗時代の院体画と初期肉筆浮世絵にあったが、それらを見て楽しむだけでなく、とりわけ後者については、1926年(大正15年)に『初期肉筆浮世絵』と題する本を出版したように、独特の美学を持つまでになっていた。それによると、彼は「浮世絵」とは浮世を写した画を意味し、「世態人事への写実」を旨とするものであると規定した。それを「自然物象描写」の作品、つまり自然をはじめとする描写対象が純粋に「形」を生んでいるジャンルの作品と対立させるというのである。

デカダンスと死、京都・鎌倉時代

 鵠沼での幸福な生活は、関東大震災で家が半壊したことで、突然打ち切られてしまった。劉生の一家は、知人を頼って名古屋に移り、それからこの年の10月に京都市左京区の南禅寺草川町にようやく落ち着くことが出来た。鵠沼時代から始まった、東洋古美術の鑑賞と収集は、この地で一挙に昂じ、また茶屋選びも始めたのであった。屏風などの高価な古美術を手に入れるために、またお茶屋の月々の支払いをするために、もっぱら画料を得るための日本画制作が多くなり、その生活は退廃的になっていった。この当時、唐画に通じることから「陶雅堂(塘芽堂)」の画号を使うようになったが、これは「買いたい」にかけたわけで、気に入ったら、価格など気にとめることなく、なんとしても手に入れようとしていたことを自嘲していたのだった。こうした遊蕩生活は1925(大正25)年4月、創立時には客員として迎えられた春陽会を脱退するにおよんで、さらに深まっていった。というのも、もともとは展覧会審査の折などに、他の会員を押し切ろうとする彼の「我儘」が原因であったとはいえ、自分が抜ければ、信頼していた画友たちも一緒に行を共にすると思っていたところ、実際に脱退したのは梅原龍三郎1人だけで、孤立感をいっそう深めたためであった。

 経済的にも、精神的にも苦しい状況を打開するために、一家は、1926(大正15)年2月、鎌倉に転居した。再び落ち着いた生活を取り戻した一家には、3月に長男鶴之助が誕生し、家庭的な賑やかさが戻った。しかし、1929(昭和4)年8月、心機一転ヨーロッパ行きを計画して、神戸で画会を起こすが、これは上手く行かず、翌月、満鉄の招待で満州に渡ることになった。大連で個展を開いた後、帰国時に立ち寄った山口県徳山で、とうとう病に倒れてしまった。そして、腎臓尿毒症に胃潰瘍を併発し、12月20日、38歳でこの旅先で没した。親しい周囲の人々でさえ驚くほどの、早い死であり、惜しまれる死であった。

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