ひらやま いくお
略歴
1930年6月15日 - 2009年12月2日(享年:79歳)
1930年 広島県瀬戸田町に生まれる。
1952年 東京美術学校(現東京芸術大学)日本画科を卒業。
1953年 第38回院展で「家路」が初入選。
1964年 日本美術院同人に推挙される。
1967年 法隆寺金堂壁画再現模写に参加。
1988年 ユネスコ親善大使に就任。
1989年 東京藝術大学学長(~1995年)に就任。
1998年 文化勲章受章。
2001年 再び東京藝術大学学長(~2005年)に就任。
2010年 12月2日に死去。享年79歳。
平山郁夫(ひらやま いくお)広島県生まれの日本画家。前田青邨に師事した。仏教をテーマにした作品が多い。平成10年に文化勲章を受章。
平山郁夫は靱彦、古径、青棚、土牛という、それぞれの墓に従いながら岡倉天心の精神を生かした院展の諸家の系譜を受けて、生まれ育てられた画家―しかもほぼ純血の新種である。しかし彼がすでに若年にして独自の絵画世界を確立するに至つたその出発をなした制作が、少年時広島における原爆体験の意識下のコンプレックスを原点としたことは注目すべきずで、ここに戦後画家としての彼の特異性がある。
その経緯を彼は、井上靖、杉山二郎らとの座談会 「日本・仏教・アジアのことなど」(「三彩」増刊「平山郁夫」)の中で、次のように語っている。
「27、8ぐらいのときだったと思います。これは疲労からかなにか、わかりませんけど、白血球の数がずっと下がってきたわけです。結婚して、子供が生まれて、芸大の助手くらいでは薄給で飯が食えないものですから、勉強と食うことで一生懸命やってたわけですね。それで狭いアパートで・・・共稼ぎなものですから、それこそ24時間フル回転みたいに子供の世話からなにから・・・そういう疲労かなにかわかりませんけど、ある時、家へ帰りましたら目がくらむわでけです。2階のはしごを上がつていると前が見えなくなりまして、それで倒れ込むように部屋へ入ったわけです。夕刊を読もうと思ったら火花が散って活字が目に入らない。それで「これはやられたかなぁ、、、」 と思いましてね。それまで夏がくると広島で被曝した8月6日の潜在意識が働きまして、体の調子が悪くなり、夜、夢の中でうなされるのです。
一緒にいた仲間の死んだ顔が出て来て「おいおい」って呼ぶわけです。こちらは返事をしょうと思って一生懸命やりますが、声にならないわけです。それでギャーッと悲鳴をあげてたらしいんです。そしたらみな起きてきて「どうしたんだ」というので悪夢にうなされて・・・そういうことがあって、これは完全に貧血症だというんで医者へ行きまして白血球を調べ てもらいましたら、ふつう7000から8000あるところ3600になってたわけずすね。それで「4000くらいから・・・増血機能が犯されるから、大至急安静にして増血剤をどんどん注射するなり、栄養源を補給しないと危ないですよ」といわれたのですが、それだけの余裕がありませんし、じっとしていたら飯が食えなくなりますし、みんな干乾しになるものですから、いよ いよだめだったら・・・いろいろ考えたわけです。それでこういうなまぬるいような絵を描いていたのでは死にきれないから、自分が救われなければいけないと思いまして、仏教の世界の取材をしょうかということで考え出してきましてね・・・」
「仏教伝来」 (1959) はその精神の情況の中から生まれた第一作である。ついで「出山」 (1960)、「入捏葉幻想」 (1961)、 「受胎霊夢」 (1962)、 「出現」 (1962)、「建立金剛心図」 (1963)、 「仏説長阿含経巻五」 (1964)、「續深沙曼荼羅」 (1964)、「求法高僧東帰図」 (1964)、「禅定」 (1965)、「天堂苑樹」 (1966)、「山越の弥陀」 (1968)、「捨官出家図」(1970) 等、数多くの仏画、或いは仏画に準ずるものを描いている。これらの内には私が実物を観ていないものもあるけれど、私の実物を観ているものの中には、その自由な発想や独創的な構図と描法とによって、従来の仏画の枠をひろげ、長く後世に遣るべきものがある。
この間、画家は1962年、ユネスコのフェローシップによって半年ヨーロッパに留学、1966年には東京芸術大学中世オリエント遺跡学術調査団に参加してトルコの奥地の山間に四ヵ月滞在、1968年には中央アジア・アフガニスタン・パキスタンの写生旅行、1969年にはインド・セイロン・カンポジアの、1970年にはイラン・イラクの、更に1971年にもシリア・ヨルダン・イラクの写生旅行、そして1973年には井上靖、江上波夫らとアレキサンダー東征の道を、アフガニスタン・イラン・トルコと車で逆行して遺跡を訪ねて廻り、別に東京芸術大学初期ルネッサンス壁画調査団の一員として、アッシジの聖フランチェスコ寺院壁画模写のために2ヵ月間イタリアに滞在、1974年にはまたアフガニスタン・パキスタンの写生旅行、更にイタリア再訪の帰途インド各地の仏跡巡礼、そして1975年には高山 辰雄らと中国政府の招待によって訪中している。
そういう幾たびかの写生旅行、調査滞在を緑としてできた画の中には、手堅い写実の風俗画や風景画もある。それはそれぞ彼の抜群の描写力を示している。しかし「バーミアンの大石払」(1970)、そして「塵耀のトルキスタン遺跡」(1970)や「中亜熱鬧図」(1971) 等に代表される大作にはもちろん、一見何気ないように見える風俗画や風景画の中にも、東西交流の悠久の歴史に秘められたドラマの余韻をその画面は感ぜしめる。これは仏教東漸の歴史と仏教教理の深さに魅せられて、その絵画的表現を生涯の仕事にしようと念願したこの画家の内奥からおのずから発せられた心の響きであろう。その世界的視圏の形成過程を彼は、上記の座談会の中で次のように言っている。
「それから法隆寺の壁画の萱をやりましたり、トルコへ行ったりしながら、やはり仏教伝来の道、それからシルクロードというのをひっかけて描いてたものです。そんなことをすろうちにインドとか・・・それからイランとか、オリエント、メソボタミアの仕事をやっているうちに、仏教とそれから仏教以前とか、人間の宗教とか造形芸術の基とか、人間の先史時代からの心とか、旧約聖書とか、これはもう国境とかなんとかというのではなく、いろんなものが一つのところへいろんな糸を織るみにいに重なってきまして、そうしながら、日本を考えて、最後は日本のそういうものを裏打ちした美しさというものを描いていきたいと思いますが、いまその基礎づくりみたいな、充電させるみたいな意味でときどき出かけていきます。」
ときどきというよりたびたびと言いたい彼のシルクロードを中心とした旅行は、そういう意味をもっているので、彼の「流砂の道」 (1968)や「イラン高原を行く」(1971)が、「求法高僧東帰図」 (1962) を連想させ、「卑弥呼壙壁幻想」 (1967)という仏教伝来以前の日本を描いたものにも、仏教伝来以後の幻想画と相通ずる情趣を感ぜしめるのは、彼がその世界的視圏の中で、自然と歴史、叙事と抒情とを、写実と幻想とのおのずからなる融合渾一の中で視覚化しているからであろう。
「日本列島誕生図」 (1968) や「高耀る藤原京の大殿」 (1969)の如き大構図も、だから、「塵耀のトルキスタン遺跡」や「卑弥呼壙壁幻想」とそれほど遠い距離をも って隔てられてはいない。その世界的視圏軍では、古代的幻想と現実の遺跡とは彼の中で感応しあい、自然への感動と歴史のドラマへの羽ばたく想いとは彼の中で交響する。そこでは奈良の寺々や、飛鳥川や山の辺の道は、ラホールのモスクやガンジスの夕やスワットの日や、更に西の方、イタリアの町や丘と遥かに呼びかうのである。
大切な財産だからこそじっくりと丁寧にご相談内容をお聞きします。