はやし たけし
略歴
1896年12月10日 - 1975年6月23日(享年:81歳)
1896年 東京麹町区に生まれる。
1920年 日本美術学校に入学、同年中退。
1921年 第8回二科展で「婦人像」が初入選、樗牛賞受賞。
1922年 第9回ニ科展でニ科賞受賞。
1926年 協会会員となり佐伯祐三、里見勝蔵らと活動する。
1930年 二科会を脱退。独立美術協会創立に参画する。
1949年 第1回毎日美術賞受賞。
1951年 東京芸術大学の教授に就任。
1959年 日本芸術院賞受賞
1967年 朝日文化賞受賞、文化勲章受章。
1975年 6月23日、肝臓癌のため死去。享年81歳。
林 武(はやし たけし)東京都出身の洋画家である。本名は武臣(たけおみ)。原色を多用し絵具を盛り上げた手法で女性や花、風景などを描き人気を得た。特に富士山や薔薇の作品に人気がある。
絵画は何を尊ぶか ―― 多くの人は美しさを第一にして、そのために丁重な描写をとり、ことに画面の疵をさけ、技をこらして精妙な魅力をもとめている。それにある人は個性の面白さを大切にして、画面に何かの新鮮な楽しさを生むことを考えている。しかし林武の作品はそのような円満なあり方ではなく、それを破って、馳けぬけるような制作であった。
何が一番大切か ―― それに応えてこの作家の作品は、生きた力こそ作品の生命であると言いつづけていたようである。そしてその追究は、野獣が突込むような激しさであったが、その間から、いわゆる目を楽しませるというよりも、むしろ身体で共鳴を感じさす新しい魅力があらわれた。
林武は、長期にわたって不遇の中で追究を重ねたが、それが酬われたのは昭和24年に毎日賞を受賞してからだった。それ以来人気は火のように上ったが、こえて5年後に高島屋で回顧展が開かれた時である。作家の作品は殆どみな強引をつくしていただけに、理解者は限られているとみられたが、実際には全く一般の人達が、固唾をのんで目をすえていた。不気味にゆがむ人物像その他から、それを眺める人達は、何か迫りくるものを身体で意識したわけであった。
その制作は、時には無残とも言うほどの追究から生れている。初期をみると、最初期から作品は動きに動いている。制作は焦立つように、それは一ヵ所に止らない。そこにはモジリアニをとった夫人の像が現れる。かと思うとマティスがとびこみ、ピカソがあらわれる。しかもそれらには、画壇の洋画家達が漸くにして悔外の現代絵画にふれ、頭からとびこんだ時代ではあったが、しかしそれらの作品は、一つとして海外作家の魅力をばなぞって、それらしさを生もうとしたものではなかった。この作家は血がにじむように、それらの新しさを造型の問題とみて 追いに追いすがったわけである。それだけに滞欧作のピカソ風の青い肉体の「立てる裸婦」などは、悽愴な気にみちている。
だが一ヵ所には止らない。制作が一つの達成をあらわすと、通常ならそれをいよいよ深くして真直に進むわけである。だが、この作家は動いてゆく。常に未知にふみこんで体当りで進んでゆく。これほど苦闘を露出して、画面に傷をのこした作品もめずらしく、それとともに異例ともいう、生なましい力を生んだ作家もなかったわけだった。
昭和13年の「室戸岬風早足』は、透明なほど緊張して冴えている。しかし17年と18年の「静物」は、一方は厚い肉体を連想さす重い力をもちながら、物体のもつ厳しさをつかみ出し、いまと空間の関係をひきしめて、それは思索的なまでの尖った緊張を生み出した。ついでさまざまに星女嬢の半身像が制作をされているが、その当時は、鬼気をおぼえると言われただけあって、それは文字通りの激しい肉迫であった。
その作品の多くは、緊張を包んでゆるやかに対すものではなくて、緊張をむき出しにあらわしている。それはつんざいて出た緊張かもしれない。一作ごとに新しさを試みて、人物の目がその数を増した制作などは、形態の問題を進めるのあまりに枠をこえたのかもしれないが、しかしそれらの作品は、また別個な異様な力と雰囲気をあらわした。
しかも常に構図に執心をして、理論的な解明を追究しながらも、西欧人とちがっ て、作家には東洋の体質が重なっていた。西欧の人は理論的に解明して、その解明のあざやかさから常に爽快を感じさせるが、この作家は形態の処置に執心する一方に、作品には、中世の人でもあるような熱をくすぶらせて、時には神秘の空気さえ作品にみせたものだった。それは一方には、誰よりも崖の表現に関心をもち、極度の簡明や端的にせまりながら、しかも傍らでは野人の野性をむき出しにして、美しくあるべきはずの絵画の表現に、その生なましい強引を打ちつけたのもこの人であった。
しかし忘れることが出来ないのは、そのさまざまな問いの間から身体におさめた力ではあるが、その肉が厚く、内から生動をする力を、誰よりも強くちかったことであった。そしてそのような地力があるために、表現の無理が通ったのかもしれなかった。
内から動く生動は、たとえば31年のその「月ヶ瀬」にあらわれている。また36年の滞欧 作発表では、生動する風景をさまざまにつらねたが、わけても側面からみた「ノートルダム」の寺院は、その量感がたくましく、内に力が動いて、それは作家のあるピークかと思わすものだった。
その後も作家は、どんな新しさでもとり喰らって、その特質をつかみ出す意欲から、ビュ ッフェまでも取り入れてきまざまな考究をするほかに、舞妓を新しい課題にとり、その富士は、それを悽愴な黒色において異様な緊張を生みだしている。そして制作の意欲とその変化は最後まで一貫して続いた。
ところで画壇では、常に画家が研鑽をつづけて、片時も休む時がなく、絶えず前進があるわけだが、しかしそれにもかかわらず、時とするとその世界が、動かない印象を与える時があるものである。そして戦後は、戦前のままな洋画ではなく、そこには何か新しい変革が期待をされたわけだった。
そういう時に、林武の制作は、その時まず常識のように守られた洋画のおとなしいあり方を、まるで薙ぐようにつき崩した。この作家は、あらゆる歪みや強引が、可能であることをさし示した。画面が生動をする時は、どのような傷も問題ではなく、作品がかがやくことを証明した。
絵画はきれい事か、それとも生きた感銘か ―― それは議論をまつまでもなく、およそ多くの観衆が拍手でこたえたところであった。晩年には、さしもの人にも疲れがみえたかもしれないが、その制作は一貫して凄絶であった。
その作品は、多くの人が楽しさを覚える、感傷や詩情をもたなかった。またきれい事の画面とは、およそ反対の強烈であった。一部の人は破壊と考えたが、事実それは凄絶で、余人にない衝撃の魅力をあらわした。
現代の絵画は、旧い考えとは反対に、描写の端的を要求し、その簡潔をたっとぶが、まわりくどさを拒絶して真向に進んだのもこの作家であった。凄気を感じさせたその肉迫、支持者さえも当惑させたその大胆 ―― いまはその人が逝き去って、まわりはその空白に目をそばだてるばかりである。
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