はせがわ きよし
略歴
1891年12月9日 - 1980年12月13日(享年:89歳)
1891年 12月9日、神奈川県久良崎郡(現・神奈川県横浜市)で5人姉弟の長男(第3子)として生まれる。
1912年 本郷洋画研究所にて黒田清輝や岡田三郎助に師事する。
1916年 永瀬義郎らと「日本版画倶楽部」結成。
1918年 銅版画技法習得のため渡仏。
1924年 デュフィの勧めで独立画家・版画家協会に入会。マニエール・ノワールを研究。
1926年 サロン・ドートンヌ版画部門の会員となる。
1931年 日本版画教会創立会員となる。
1934年 フランス政府よりレジオン・ドヌール勲章を受章。
1964年 フランス芸術院コレスポンダン会員となる。
1966年 フランス文化勲章受章。
1972年 フランスの国立貨幣・賞牌鋳造局からメダルが発行。
1980年 パリの自宅で死去。89歳。
長谷川 潔(はせがわ きよし)版画家。フランスへ渡り、様々な銅版画の技法を習熟。特にメゾチント(マニエール・ノワールとも)と呼ばれる古い版画技法を復活させ、独自の様式として確立させた。
長谷川家は、横浜の町外れにある戸部の御所山という丘の上にあった。桜並木の坂道をのぼって行くと門が見え、屋敷の周りは大木で囲まれた庭が広がっていて、牡丹と薔薇が季節ごとに花を咲かせていた。中央の築山には大きな石があって、その上にのぼっては、潔少年は遠く広がる水平線を見つめて遠い将来のことを夢想するのだった。
父一彦は渋沢栄一に認められ、創設されたばかりの第一国立銀行に入社、神戸支店長を経て、当時は横浜支店長を務めていた。そのため、潔少年は子供時代から父の明治初期的な熱心な教育を受けた。
しかし、そのような経済的にも教養的にも恵まれた環境での幸福は、長くは続かなかった。潔少年は5人姉弟のちょうど真ん中で、10歳のとき、利発であった長弟純と長姉静江とはすでに死別していたが、1903(明治36)年春に父を失った。元来病弱であったが、喘息の発作に対して医師が処置を誤ったためであるという。母は3人の子供を連れて東京に戻り、麻布に居をもとめた。潔少年はやがて麻布中学校を卒業するが、ちょうどその年の秋、母をも失うことになったのである。後年、長谷川自身、「少年時代はおわった――うつろな空気のなかで、ただこれだけをはっきりと感じた」と述べている。
父の体質を受け継いでか、蒲柳(ほりゅう)の質で、よく病気をし、学校も休みがちであった潔少年は、なんとかして丈夫になりたいと思い、朝は必ず深呼吸、冷水摩擦、鉄亜鈴の運動をし、水泳、撃剣などのスポーツをやり、中学卒業後は柔道や弓道もやってみたが健康の方は一向に良くならなかった。そして、結局は自身の好きな道である美術の世界へと進むことになった。
洋画の基礎を学ぶべく、葵橋洋画研究所に入り、黒田清輝に素描を習い始めたのは1911(明治44)年、20歳のときであった。しかし、同研究所で学ぶ青年たちのほとんどの目的が東京美術学校受験の準備のためであり、美術の本質について教授されることもなかった。しかも、フランス帰りの画家たちから美術学校で受けるアカデミックな教育が、渡欧して本格的に研究を始めたときかえって妨げるということを聞いて、美術学校に入学よりも一刻も早く渡欧したいと考えるようになったという。そうこうするするうちにコンクールでもぼつぼつ賞を取るようになり、翌1912年には岡田三郎助、藤島武二が指導する本郷洋画研究所が開設されたので、こちらにも入所して油絵を学び始めるとともに、文学雑誌『聖盃』の同人にもなった。
また、丸善の洋書部へ足しげく通って洋書を買い込み、カンディンスキーらが1911年に結成した青騎士などのドイツ表現主義にも惹きつけられたし、ベルリンで洋楽を学んで帰国した山田耕作と親しくなり、山田の周辺に集まる音楽家や、石井漠らの舞踊家、東郷青児らの美術家とも交わり、音楽と美術の関係がおぼろげながらつかめてきたとも言う。一方、イギリスから帰国して『バッハよりシェーンベルビ』を刊行して名声を得た大田黒元雄(くろもとお)とも親交、彼がドビュッシーやシベリウスの音楽を日本で初めて紹介する音楽会を開いたときには、長谷川は木版画や銅板画によるプログラムを担当した。
長谷川が版画を始めたきっかけは、『聖盃』の表紙のためのペン画が思い通りに印刷されなかったことから、肉筆画を複製印刷するのではなく、活版印刷とそのインクに適するように自分自身で絵を彫り上げる必要を痛感したことであった。長谷川はまず木版画から始めるが、それは浮世絵などの伝統的木版画の方法とおは異なり、版木に直接あたりを付けてじかに彫っていくというもので、今日創作版画と呼ばれている版画技法の始まりであった。『聖盃』の木版画による表紙絵を交互に担当した永瀬義郎と、日本画家広島新太郎(晃甫)の3人で日本で最初の版画家グループ「日本画家倶楽部」を結成し、第1回展を開催したのは1916(大正5)年のことである。
こうして日本における美術家としての活動も軌道に乗り、世間的な評価も受けるようになるが、それに比例するかのように長谷川の心内には渡欧の夢が広がるばかりである。しかし、第1次世界大戦の戦場となっているフランスに渡るのは不可能であった。そして1918(大正7)年11月に戦争が終結するや、待ちかねたように春洋丸に乗船し、アメリカ経由でフランスに向かったのはその年の12月30日のことであった。
日本を発ってほぼ3か月後の1919(大正8)年4月4日、長谷川はパリの土を踏んだ。しかし、父譲りの蒲柳の質であった彼は、旅の疲れも加わってニューヨークを出帆したことから床につく日が続いており、到着後しばらくはパリにいたが、秋に入って健康回復のため南フランスのカンヌやカーネに滞在する。地中海の眺め、ことにコート・タジュールの輝く光と明朗な色彩に深い感銘を受け、プロヴァンス地方の自然と人工との見事な調和を示す丘上の村落ちや風物に魅せられた。
長谷川の名が初めてパリの画壇に登場するのは1923(大正12)年のサロン・ドートンヌに油彩画を出品したときである。以後、さまざまな展覧会に油彩画や版画を出品していくが、1924年にデュフィの勧めにより画家版画家独立協会に入会した意味は大きかった。この協会は、マティス、ピカソ、ドラン、スゴンザック、ヴラマンク、シャガール、ローランサン、デュフィら当時の新進の画家であり版画家出会った人々による団体で、その活動は第1次世界大戦後のフランスの画壇に大きな影響を与えたからである。1935(昭和10)年に同協会が解散するまで毎年出品し、ここを舞台として銅板画家長谷川潔は世に出たといってもいいだろう。
以後、敵国人としての辛酸をなめたこともあった第2次世界大戦を経て、1964(昭和39)年にフランス芸術院のコレスポンダン会員に当選し、1966年にフランスの文化勲章にあたるオルドル・デ・ザール・エ・レットルを受賞、1972(昭和47)年にフランス国立貨幣・賞牌鋳造局において、葛飾北斎、藤田嗣治に続く3人目の日本人画家として、その肖像を浮き彫りにしたメダルが鋳造されるなど、長谷川のフランスにおける高い評価は不動のものとなった。しかし、1980(昭和55)年、満89歳の誕生日を迎えて間もなくの12月13日、27歳で日本を発って以来一度も故国の土を踏むことなく、芸術にすべてを捧げた長谷川潔の生命はパリに燃え尽きた。
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