ありもと としお
略歴
1946年9月23日 - 1985年2月24日(享年:38歳)
1946年 岡山県津山市に生まれる。
1953年 台東区立谷中小学校入学。
1954年 絵画コンクールに出品した《友人(木版画)》が最優秀賞に選ばれ知事賞を受ける。
1969年 東京藝術大学入学。
1974年 箕浦昇一と本格的な二人展を開催。「曙光」「運動する人」などを出品。
1975年 谷中の実家近くに初めて自分のアトリエを持つ。
1984年 第一回日本青年画家展が日本橋三越で開かれ「7つの音」を出品。優秀賞を受賞。
1985年 有元利夫その世界展が開催。2月24日、死去。享年38歳。
有元 利夫(ありもと としお)岡山県生まれの洋画家。東京芸大在学中にイタリアで伝統芸術のフレスコ画に出会い、日本の仏教画に共通するものを見出てし岩絵の具や箔の技法を学ぶ。
1946(昭和21)年9月23日、有元吉民、琴子の四男として一家の疎開先の岡山県津山市小田中に生まれる。家族は祖母み子、父、母、長男眞一、次男靖男、三男信夫である。生家は東京都内に家作約1500軒をもっていたが、戦災でほとんど焼失した。有元が一歳のころ上京し、谷中5丁目の観音寺を一時仮住まいとする。
台東区立谷中小学校に入学し、2、3年のころからゴッホに強い関心を持ち始める。この頃から有元は絵画にのめり込んでいくようになる。油彩の道具一式とキャンバス・ボードを買ってもらうが、使い方が分からず、当時上中里に住んでいた従姉の友人に油絵を習いに行く。有元の才能はピカイチであり、この頃、絵画コンクールに出品した《友人》が、最優秀賞をに選ばれ知事賞を受ける。
中学は台東区立上野中学校に進学し、高校は私立駒込高等学校に進学する。中学から高校でのあまり印象的な出来事は綴られていはいない。事実、有元本人は「中学時代の三年間、十三歳から十五歳までの長い時間は、今いくら振り返って目を凝らしてみても、くっきりと浮かび上がってくることは何もない。いや、正確に言えば、ボーっとしたそんな空白は高校二年くらいまで続いていたようです。」と自身の人生を振り返っている。
そんな高校二年生の終わりより、当時東京芸術大学の大学院生だった版画家の中林忠良が、美術の時間講師として教鞭をとるようになる。高校を卒業後、東京芸術大学(以下、芸大)の受験に失敗し、中林忠良のアトリエに通い、デッサンを勉強、その他にも芸大に入るまでさまざまな受験予備校に通い、5度の芸大受験を経験することになる。
はじめて現役で芸大を受験した当時を有元は、「高校三年、現役で受験した時の僕が、あきれるほど世間知らずで、前世紀の遺物みたいにのんびり構えていた。」と言う。それとは対照的に一浪、二浪の時代は美術系の有名予備校や研究所などに通い、1科目に1ヶ月かけて習得する勢いで勉強に励んだ。また、たくさんの予備校に顔を出しているうちに、顔なじみができ、芸大受験に関する貴重な情報も得た。三浪、四浪の時代にはデッサンの描き方、テクニックなどの実践におけるハウトゥ―本などをくまなく読み、制作に励んだのであった。このようにして高校時代から変貌を遂げた有元は、晴れて5度目の受験で芸大入学を勝ち取ることになる。
1969(昭和44)年、23歳の有元は、東京芸術大学美術学部デザイン科へ入学する。5回の受験を終えた有元は解放感にあふれていたという。大学では、テニスクラブに入り、他学部の生徒ともさかんに交流していた。また、アルバイトなどにも精を出し、充実したキャンパスライフを送っていたという。
絵の方はというと、1971(昭和46)年からアメリカ美術ブームが始まり、リキテンスタイン、ローゼンクイストなどは有元の憧れの存在であった。しかし、有元はアメリカに行かず、ヨーロッパに行くことを決意する。はじめに訪れたのがイタリア。
――最初がイタリアだったのが、今から思えば僕にとって決定的な意味があった。それまではヨーロッパの古典絵画についての予備知識も大してなく、東京での展覧会や画集などもまんべんなく広めに見るということをしてこなかったから、この旅行で、しかも最初に足を踏み入れた地で、いきなりバカっと本物と対画してしまったわけです。――
帰国後、次は芸大のデザイン科全員で古美術研究旅行をし、京都、奈良に残る多くの古美術を鑑賞する。
1972(昭和47)年、26歳になった有元は卒業制作に取り掛かる。ヨーロッパでの古典絵画や日本の仏画に強い興味を持っていたことから、《私にとってのピエロ・デラ・フランチェスカ》という題で、10点連作の作品を作る。卒業制作ははじめ、学校の古い校舎の大きな教室で、キャンバスを10枚並べて描いていたが、制作が進んでいくうちにどんどんのめり込んでいき、夜な夜な家に持ち帰り制作を続けていた。ちょうどそのころ、就職活動が終わった有元は女房と婚姻を結んでいた。2年先に卒業していた女房はキャンバスを持ち運ぶために特製の大袋を作ったりと、有元に尽くしていた。
芸大卒業。卒業制作の《私にとってのピエロ・デラ・フランチェスカ》は大学買い上げとなる。
大学を卒業し、電通に就職した有元は、デザイナーとして生計を立て、そのかたわらで自分の好きな絵を描いていこうと決めていた。なぜ画家の道をいかなかったのか、本人は絵を描くことが職業として成り立つと想像できなかったという。就職した年に両親のスネをかじり、家を新築し、そこにアトリエを作った。電通に勤めていた3年間、絵を描くのは夜と土曜日と日曜日だけ。一日の業務が終わると一目散に帰宅し、絵を描く、こんな生活を送っていた。当時を振り返り、「今考えると、会社の帰りに同僚たちと一杯飲んだという記憶はひとつもありません。」と語る。絵が心から好きだったのであろう。
そんな風な生活を続け、1974年に展覧会を開く。場所は銀座のみゆき画廊。この時、一緒に展覧会を行ったのは浪人時代と芸大のデザイン科でも同級生で、電通にも一緒に入社したとても仲の良い友人である。この展覧会では反響がとてもあり、「藝術新潮」などの雑誌に取り上げられる。
その後も精力的に制作を続ける。1976(昭和51)年第2回個展「バロック音楽によせて」。この年の3月末に電通を退社し、画家としての活動に専念する。1978(昭和53)年4月、第21回安井賞展に《花降る日》と《古曲》を出品し、《花降る日》が安井賞特別賞を受賞する。1979年、第31回立軌展が東京セントラル美術館にて開催され、《花火のある部屋》、《机の上の出来事》を招待出品する。翌年より、「藝術新潮」に『バロックの情景』と題し、毎月1点ずつ1年間デッサンを発表する。この年の9月に自身初めてとなる立体作品を発表する。その後も、《室内楽》、《厳格なカノン》、《会話》、《想い出運ぶ人》、《春の少女》など今も色褪せない名作を数々と発表する。
1984(昭和59)年、11月3日、肝臓に腫瘍が見つかったために入院。翌年、2月24日肝臓癌のために逝去。享年38歳。順調だった画家としての短い人生にピリオドが打たれることとなる。
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