ある外国人がいった。「なんだってこう緑一色なんだ」「緑一色ではない。微妙な抑揚があるではないか」と私。「太陽が当たっているのに木陰もない」「日本画では暗闇の時に初めて隈取どりをつけるのだ」「このカビの生えたような幹は病気か」「いや現実感を出す工夫だ」。≪柳陰≫を前にしての会話である。外国人の合法的な眼による見方からはそうも見えよう。しかし、写実も写意のための大観の作では事情は違ってくる。まずこの図柄は伝周文の≪山水図屏風≫の部分からとられていること。彼は墨絵のそれを盛夏の眩ゆいばかりの緑の空間に転化した。家もロバも、童子も、小川によって広がりをとったこの緑のオゾン層(金地の余白)、すなわち柳陰の中でのんびりと憩っている。≪五柳先生≫から派生した垂らし込みの幹も、陽炎に揺らいでみえるような風のない夏の午後である。このシーンは翌年の≪長年の巻≫の部分に再現され、童子は≪老子≫でさらに丸くなって構成に加担している。